序章
"エメラルドグリーンの魚を見たの。見たったら、見たんだからっ!"と彼女は譲らなかった。湖面が風に、仄かに揺れる情景を見ながら僕は通学路を歩いていた。この、と僕は空を見上げる一"このありふれた青で、十分なんだけどな…"
「と、いうわけさっ」とN先生。長ったらしい前髪を左に流すや「聞いてた!?」と視線が一閃されたように飛んできた一「はっ、はいっ。聞いてました!」「ホント?そりゃ良かった」
それは事実で、いつしか引き込まれていた幻想の気配に脳は逆にクリアになって、どこでもないどこかを見ながら巨大なホラ貝の貝殻の中で響き入ってくる声を聞いていた。
なんだかな。
一番左端の特権を生かしまた、空を見上げると雲がモクモクと迎えてくれた。いつの間にこんなに増えていたんだろとじんとなった。
気づけばうっすらとした緑に包まれていた。密林にはやさしい光が降り注いでいた。チャポっ、チャポっと魚が跳ねていたけれど、エメラルドの魚ではなかった。でもそんなありふれた貧しさが愛おしかった。
…と僕の文章は正確じゃない。正確には気づけばもう水彩のよな、薄緑を纏った彼女は慈愛に満ちた微笑で僕を、ほんのわずかに見下ろしていたんだ。可笑しいな。僕のが高くてけっこう身長差、あるのにな。
それこそあたかも幻想であったかのように視点は、彼女と自分をともに捉える遠距離になり、彼女はシースルーの衣服を纏っていた。もちろん(?)胸はしかと覆われていた。控えめなそれに僕はなぜだかいつも、ほんのりとした物哀しさを抱くのが常だったのだけど、それはともかく僕は彼女が湖に足を、その小さな右足を踏み入れる夢を見ていた。
だけど、彼女はまるで水を怖れてるかのように頑なに、水一滴すらその身に浴びようとはしない。僕はといえば野暮ったく、捕れるわけないのに左手で魚を捕る仕草をほとんど本能のよに繰り返してたからホント対照的で、その瞳が所在なさげに揺れ出すのを見て初めて、僕は彼女が居心地の悪さを感じてることに思い至った。
「ホラ、いない。そう言いたいんでしょ?」
「いやいや、そんなことないさ」
「でも、もう何十回も空振り、ならぬ水振り(?)、してるね?」
「それを言うかな(笑)」
「ねぇわたしケーキが嫌いなの」
「僕は大好きだけどな。ホント、大好きだよ」
「なんだかいやらしい感じ(笑)」
「またまた、思わせぶりな(苦笑)」
「最初に思わせぶりしたの、あなたでしょ?」
「とことん理屈を追う子だね君は(笑)」
「ねぇわたし、リケジョになりたいの」
「いつか、言ってたよね」
「それでね、青い魚や、そしてエメラルドの魚について、この亜麻色の瞳を秋口のよに澄ませながら研究するの」
「とりあえず看板娘、になっちゃってから考えたら、どうかな…」
「あなたが見たいだけだったりして(笑)」
「あっ、バレてる?」
「冗談よ。半分ほど、ね」
右端を見やる。純白のページに、フリクションの青が小さく波打っているのが見える。そこに落とされたひたむきな視線。でもそこにあるのは亜麻色ではなく黒い光で、"アイツの目の色、こんなに黒かったっけ?"と、おそらくは光の加減もあってより鈍く見えていたろうその色合いを、得も言えぬじれったさを感じながら反芻していた。
25/10/21 06:06更新 / はちみつ