ポエム
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藍色の夢と、水の女(ひと)
 
 きらびやかな陽射しを遮る木々の、こんもりとした緑の下の一本道の、向かって右側遠くの陰のなかから彼女は、緩やかにその身体を大きくしつつしとやかに歩いてきたのだけど、そこにはさらに言いようのない、しいて言えばあたかも目を瞑りながらあゆみ来たっていたような、そんな微細で流れるようなニュアンスがあった。季節は5月。彼女は紺の半袖シャツを着ていて、そして胸が豊かだった。
 もしまじまじと彼女を見つめたならば-と、僕は一寸、彼女のその凛とした姿を静止画のように眺めた―それ(ら)は、それこそ一対の弾頭のようにこちらに迫ってくるのだけど、こうして振り返るなかで彼女からスーッと、その表情の定かでない折りからこの頬へと、あたかも和やかな微風の伝ってきていたような微睡みのなかでは、現実には"それ"をピッチリと覆っているシャツの締まり具合は弛くなっているようであり、またその紺が不思議にも遥か古代より染み出してきた藍(あい)色のように思えてきて、"それ"は朧(おぼろ)で温かな輪郭としてこの胸に揺蕩い満ちてくるのだった。

 …僕は(も)目を瞑った。彼女が右胸の横を風のように通り過ぎていくのが分かった。あるいは風として通り過ぎていったのかもしれない。アパートに帰ると重力を感じた気がした。無色明太子に玄米ご飯が進んだ。40手前の侘しさが背に雪のように降り積もっている気がした。

 翌朝起きると、やはり陽射しはきらびやかだった。陰の不可思議だったやわらぎのなかに、気づけば胸は浸っていた。あのポニーテールの揺らぎ具合はどのくらいだったろう?そんな細やかなことが気になって仕方がなかった。最後にすれ違った、僕が目を瞑っていたあの瞬間、彼女は僕の閉じられた瞼を一瞬でも見たろうか?あの瞳の強い黒が甦った。と、もしもあの折りに光が、彼女から光が放たれていたならば、この身のうちではいま、何か新たな化学反応が進行しているはずだとすら、僕はどうしてだか思っていた。たとえば黒い雨のようなー
 ーと考えたところで僕は、藍→黒とシャツの印象が、ひいては彼女そのものの印象が、いつの間にか変わっていたことに気づき打たれた。といって、たとえば、彼女はいわゆる黒い森(シュヴァルツヴァルト)から歩み出てきたのだとか、そんなことを思ったわけではないし、まして悪魔の使いだなんて思ったわけでも、もちろんない。ただしかし、そこに、そういったものたちと兄妹であり得るような、それらに"ある程度"近しいなにものかの気配が、微塵も存在していなかったと言えば嘘になる。微睡みの背後でたしかに、あたかも渦を巻くようにして、それは彼女の、たとえばその頭の向かって右上中空あたりで、密やかに漂っていたようでもあった気がすると、このいま僕は振り返っている。

 進んで明るさを感じようとして、僕は外の新興住宅地をあらためてしかと見つめてみたーと、4月の風が吹き抜けるのが見えた気がした。存外薄暗いことに初めて気づいた。考えてみればまだ7時なのだった。先ほどきらびやかだと思ったのは、つまりはあの昨日の午後の印象があまりに強かったものだから、僕はついあの折りの陽の照り具合とこの朝の具合を、ともに「昼間」として雑に把握してしまっていたということだろう。
 「朝」があらためて開けていた。ふっと、青が徘徊しているーと、僕は思う。もしかするとそれは、僕の色彩感覚が貧しいのもあるのかもしれないけれど(つまり、もしもう少しばかり繊細ならば、よりニュアンスを的確に表した色合いに喩えていたかもしれない)、そんな風に思ったことには大切な意味があるように思う。しかし僕は空の水色からの水色→青なる連想によって青へと誘われたのではなく、青はやはりあの女(ひと)から、その美しい身体に宿されていた藍色の夢からこそたなびいてきているようだった。そうして留(とど)まって、まるで、彼女が通り過ぎていったことそれ自体の悦びに満ちあふれているかのような天真爛漫さで、シュルリシュルリなる擬音語でもあてがってやろうかというくらいの自在さで、神秘な小動物のオスのように青は徘徊しているのだった。
 僕は、彼女はたしかに陰をあゆみ来たっていたのだという事実を、あらためてしかと認識した。そのとき彼女は、ひとえにしとやかな女(ひと)だったのだーと、対比的に、その胸を、一対のものを、陽にきらめかせることで突出させているかのようだったあの、美しくも禍々しい胸を持った、妖しい静止画の女として彼女はふたたび立ち現れた。
 いったい彼女はいつ、陽のあたる場所へと現れ出たのだったろう?いつの間にかという形でと、僕は少し格好をつけて考えてみる。しかし、あくまでそれを確定させたいという思いは抑えがたかった。最初に陽を受けた瞬間にこそ、彼女はあの禍々しさと手を結んだのだとするならば、それはそれこそ黒い波のように、一瞬にしてこの胸を染め上げたのではなかったか。気づかぬうちに、気づいてないからこそ、もし気づいた暁には魂の芯までをも燃え上がらせるような、そんな強度で。
 がらんとしていた。まるで遠い夢を思い返すように、僕は彼女の歩み来たりを再生し続けていた。しかし陽の光は、ぎらついていたはずなのに淡かった。ぎらつきを感じようとするほどに、ますます淡くなっていくようでさえあった。神々しさも禍々しさも、この胸にはいまや残ってはいやしないのだという認識が、いつしか僕の胸を浸していた。なんだか空しかった。虚しいとまではいかずに、あくまで空しいにとどまるのは、走り回っているよな彼のその、いわば瑞瑞しい軽やかさがこの胸に、侘しさのさなか一抹の甘味のよに、メントールのような清涼さで吹き込んでくるようだったからだ。染み渡るではなく明瞭に、たしかに吹き込んできていると思えたのはあるいは、さきに春の風に乗るようにして一寸明滅した、散り桜の動的な情景ゆえかもしれない。もちろんそれは、ある種の心理的な辻褄合わせなのかもしれないけれど、ともあれ大切だと思うのは、まさにこのいま僕が、漠然とした桜吹雪のイメージの下に、美しい"彼女"のことを胸に浮かべようとしているそのことだ。
 実に豊かな「朝」だった。"彼女"は前の職場の同僚で、既婚のパートさんだった。青→桜→明るく溌剌としていた"彼女"。意識に従うならそうなる。けれども、僕は夢想する。彼女と遜色ないくらいに美しい顔をしていながらも、どこかちょっと抜けていて、大人しい友人が相手だとハチドリのホバリングのように話し続けていた"彼女"の、あのやわらかで愛らしい、控えめな胸のゆるやかな猫背が、それこそ無意識におぼろに揺蕩っていたからこそ、僕は愛すべき木としての桜を思い出し、そうして彼女がしょっちゅう話をしていた、その息子さんのような青も現れたのだという、"彼女"→桜→(息子のような)青なる、朗らかでありふれた、愛すべき連鎖を。
 桜の木の下、亜麻色の、髪をほどいた垢抜けた女(ひと)ー彼女の向かって左上の中空から、どうしてだか劇画的な、まあるく膨らんだ水の雫が、ぽとりと一滴大地に落ちた。水の女(ひと)、水の女(ひと)…気づけば歌うように、僕はそんなフレーズを口ずさんでいた。

25/03/19 08:06更新 / はちみつ



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■作者メッセージ
小説を書こうと頑張りましたが、早く閉じちゃいました(苦笑)とはいえもちろん、散文詩として見たら長い(汗)。お読みくださり、ほんとうにありがとうございます。

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