気づけば闇夜ふたたびバチバチ
蛇に喰われる気配を感じたから逃げるように夢から覚めた。うつらうつらしながら蛇というにはいささかおっきな身体を巻きながら立って180cmほどもあるくすんだ深緑色の蛇を思い返し。ピリッとした冷気に包まれた古代日本の林のようだったなと、畳もない現代の家に思っているこの自分との対比が面白い。
林と言えば幼い日の、おばあちゃん家の隣の雑多な木々の生えた森みたいな場所を思い出すけれど考えてみればあれは私の初めての異文化体験だったのかもしれない。ちょっと大げさかもしれないけれどやはりそう言うのがふさわしいと思うのはまず自然体験ということ、そしてさらに私はそこをほとんどジャングルだと思ったつまり熱帯を見ていたことによる。
さきに私を捉えたのは、こじんまりした空間にいながら半ば自在に時空を渡り行くことのできる悦びだったのだと彼女は思う。それは他でもなくこのいま私はこの場所に渡っているのだといういわば必然的な感覚を伴うものであり、そうしてその上に次なる地点への予感が重なるのだと総括しつつ欺瞞に気づいた。それはあくまでこのいまの振り返りにおいてそのように立ち現れたにすぎない、そうだ私はたしかに"いつの間にか"という形で古代日本から熱帯のジャングルへと渡ってしまっていたのだと彼女はその、ほとんど強制的とすら言える連想というものの磁力の前に襟元を正していた。
そもそもこの街は海に面してはいない。それでも彼女のなかでそのカフェは絶えず海風とともにあった。
「はい、どうぞ」とモーニングセットを机に置く女性店員の手はさざ波のように寄せてきては、やはりさざ波のように"止まり時"を心得ているそのタイミングの変わらないことがいつ来ても新鮮だ。"休学中なんです"と言ったら"あっ、そうなんですね"と仄かに、憐れむようなトーンを浮かべるようで浮かべなかったそのニュアンスの余韻はこのいまも、風と水の世界のさなか淡雪のように揺蕩っている。
オーストラリアの海辺のクリスマスに牡丹雪が降ったことはいままでにあるのだろうか。あればいいなと彼女は思う。私が夢を見るならば世界が夢を見たっていいはずだ。でも哀しいかなこの世界は殺伐としていると彼女は、バイト先の軽作業工場の同僚女のピリッとした感じを思い返す世界の奥行きが急に浅くなり、ヌッと同僚女が現れつつ彼女を受け入れているようで拒んでいる。この感じこそが彼女を長らく悩ませているものだった。その曖昧模糊としたニュアンスはそのまま異世界へと通じているかのようだとこのいまつとに思うと思うと、鬱蒼とした神社の森が開けていた。夢の古代日本の林のようにおっかない蛇のいる気配はないものの地面のそこかしこから小さな蛇の紅い目が光ってきているような気がする。遍在しているのでなくどこかにいるのだけれどどこか特定できないので実質遍在しているよう、幾百の蛇の瞳の小さな紅は地上の星のようで。
チョロロロロ…境内向かって右奥から小さな小さな川が流れてきた。そういえば夢の林にもやはり小川が流れていたが左奥からでもう少し大きかったでもそのことの意味は分からないただ、同質性の程度が上がったなと思いながら流れへと歩み行く。右手を浸すとひんやりと心地よく季節はやはり5月らしいそこは古代林とは違う、緑満開本殿こんもりけれど霊気の予感頬に冷ややかに来たり厳しい女幻(めげん)、悩ましく舞わすはでも軽やかな音(ね)、葉擦れサーッと細腰波成りクネクネくねるも袴厳しく遮りてある、淡い陽吐息に太古の夢、被さり開くは密林のしがらみ、夜な夜な雄蛇女へと忍び、女は怪異な長へとしなだれ、フツフツ煮立つは不可思議な嫉妬。
それにしてもあの女(ひと)はいつもなにか、あたかもハチドリのホバリングのような語り方をする。それがなんとも目障りに思われるのだけど、でもまさにその自己主張の強さに惹かれてる自分を感じてもいて。
しかしいずれにせよ私は一人だ。自分は妖しい花のような彼女の陰に隠れた地味な花のような心地がする。高い木々を見上げれば、相も変わらずサラサラ、サララ。物哀しさをそっと重ねてみたならば、そういや自分睫毛だけは立派なんだよなと、"三日月、私は月の姫…"気づけば闇夜ふたたびバチバチ。
健気な夜の姫たる私はささやかな日本の月夜が舞台ならば、あるいは彼女を打ち負かすことができるだろうか。"打ち負かす"という語のニュアンスに自分が胸に発したにもかかわらず、驚く。なんでそんなことまで思ったんだろう。背の低い私が坂口さんを打ち負かす図を描いてみると案の定劇画調で、私は思わず笑っていた。