風の憧憬
それからしばらく経ったある日の早朝に、彼女はその内面につむじ風が巻き起こる音を聴く。
いつものように彼女は、病気になってから日課となっていたウォーキングをしていた。あの神社の石段の傍を通り過ぎようとした折りのことだったー「おう、愛果ちゃん」ハッと驚き身を反らしてしまった。「あっ、ごめんなさい…」「いやいや気にせんといて。驚かしたオレが悪いんやから」「はい…」とあくまで自分はしおらしい、なんで私こんなにも"女の子"なのと、泣きそうになりながら快感だった。「どう?大学生活は。楽しんでる?」ーそれは彼女の胸をのっぴきらないマグニチュードで揺さぶった。「わっ、わたし、ちょっと体調、崩しちゃって、それでその、いまは大学、お休みしてるんだ」と精一杯に笑ってみせた。「えっ、マジ?そら大変やなあ。でもさ、軽々しくこんなこと言ってなんやけど、ホントそのうち良くなると思うで。愛果さん元気に見えるし、それに可愛さ、変わってないもん」彼はそう言い、白い歯を見せニカァっと笑った。
彼の去った後も彼女は石段の傍で立ち尽くしていた。『風の憧憬』という透き通るようなゲーム音楽の名曲が、自分の胸を文字通り風となって駆け回っているかのようだった。いい曲だとは思ったもののやはりゲーム音楽の『おおぞらをとぶ』のように聴き込んでいたわけではなかったからなおのこと、ほかでもなくこの時に思い出されているということの重みが、彼女を再び神護の林へと密やかに運んだ。やはり仄暗さに包まれた。しかし自分はいまやたしかに女(ひと)なのだと、キュウウッと胸を締め付けるような切なさを抱いて抱いて、抱きしめながら石段を登る。
あの日と同じく境内の石の腰掛けにゆったりと座った。緩やかに見上げた木立のあいまに自分が在ることの不思議が揺れていた。病気になった。狐になった。人に戻った。そして、彼に会った、そうしてほとんど嘘をついて、いまこうして私はまたここにいる…それら一連の出来事に確固たる意味があるとは思わなかった。しかしその意味が不確かなことこそがまさに揺蕩いを連れて来ていた。それらは鮮やかな夢となり、木立の向こうの遥か水色へと翔た。
「おぅ、遅かったやないか。大丈夫か?」おじいちゃんが心配してくれる。でも前だったらそれこそ"男と会っとたんか!"とでも言うところだ。優しさをジンと感じながらもなんだか寂しさが込み上げてきて、彼女は笑った。その背後で、自分をときにいやらしい目で見てきていた祖父の好奇が泳いでいるだろうことも知っている。でも不思議と嫌じゃない。隠されることでかえって強烈に自分へと向かってくるかと思ったらそうでもなかった。現のことごとくが、大空を行く瑞瑞しいそよ風のようだと彼女は思った。
風の憧憬
https://www.youtube.com/watch?v=iN4TSrFHyRg