おばあちゃんの処方箋
「なんか馬鹿にしてない?病気になったからって、狐だなんて」
「そんなつもりやないんよ?そうやなくての、わしは狐が好きなんよ。その狐とあんたが重なって見える。いままでがそやなかったいう話やないんやけどな、あんたが病気になって、つとに可愛ゆう思うてしまうわしがおるんよ」
「わかるような、わからないような」
そう言い残して会話が終わらぬうちに台所を後にしたのは、ちょっと拗ねたところすらも、それこそ可愛いと思ってほしかったからだろうか。部屋に入った瞬間ピッと違和感をおぼえた。すぐにそれはベッドやカーペットがピンクだからだと気づいた。ピンクの部屋に黄色い狐はまったく似合ってなくって、それで彼女は自分が狐を受け入れていたことを知った。
忘れないうちに飲んどかなきゃとエビリファイの錠剤を押し出すと、無菌室のような病棟の雰囲気に再び包まれたようだった。高い天井が真っ先に思い浮かんで、そうだそれで特有の浮遊感のようなものを感じたんだと思い返す。そこから想像は一気に診察の場面へと飛んだ。ピリッとしたというよりもはやキッとしたと言ったほうがいい、そんな緊迫したものを感じさせる30過ぎくらいの男性だった。室内に響くキーボードは乾いていた。私の話してる折りはほとん目を合わせてくれなかったな、記録しながらだから仕方ない、でも自分が話す折りは一寸睨めつけるように見てくるのだ、なんだか悔しくって仕方がない、まさか同意しないなんてことはないですよね?とでも言われてるみたい、そこまで言うこと、ないじゃない。
そこまで考えた折り、「いたいけな狐」は彼女の胸に乗り移った。診察が終わって薬をもらうのをシュンとしながら待っていたあの折りから、私は可愛いそうな可愛いそうな狐だったんだ。部屋のピンクを改めて見るとツルッとしてるなと思う。色も質感も狐たる彼女とは対極的ながら、しかしだからこそそれらはまさに彼女を浮かび上がらせるためにしつらえられているかのよう。
「キュルルルル…」と彼女は声を発してみた。狐がそんな声なわけがなかった。でもそのどことなく、人とも動物とも言えぬ不可思議な位置から響いてくるかのようなその響きを「キュルルル…」、何度も何度も聴いてみるのだった。
翌朝彼女は、いつも6時半に起きるところを5時に起きた。町内にある神社に行くと決めていた。初夏ですでにそれなりに明るかったけれど、境内に入ると木々に覆われ仄暗くなった。暗いけれども暗がりとまでは言えない、言わば明をそのうちに包んだ暗こそが、彼女の求めていたものだった。
「クウン…」と今度は彼女は明確に犬のような、健気な動物の位置から声を発していた。上向いた瞳に緑の葉擦れが飛び込んできたような気がした。"思った以上に雰囲気に本能をくすぐられたようね"と彼女は思った。そうして登り切った彼女は、境内の石の腰掛けにゆったりと座った。
"なんでまた神社なんかに行っとったん?"
"おばあちゃん、私のこと狐みたいだって言ったでしょ?だからね、狐であるとはどういうことか、それをぼんやり考えたいなあって思って、行ってきたの"
"えっ?そんな大真面目に受け取らんでええよ!?ということは、あんたは自分で狐みたいな雰囲気になろうとしとったってことかいな"
"うん、でも正確にはなろうとしてたっていうより、なっちゃってたの、気づいたときには"
"ほええぇ"
クスクス笑っているとウグイスの鳴き声が聴こえてきた。「ホーーホケキョ」の長い「ーー」を反芻していると、自分への愛おしさが溢れ出してきた。まるで自分のフサフサの毛が町中へと一本、また一本と、たんぽぽみたいに瑞瑞しく飛び広がっていったようで。自分は先生に睨めつけられるだけの存在じゃないんだということが、頭ではなく胸の底から分かった気がした。
「キュルルル…」と、彼女は再び発していた。人と動物のあいだの、女の子ならぬ"狐の子(きつねのこ)"。それは期せずしておばあちゃんが授けてくれた、ほんのりと温かい処方箋だ。