杜牧とフィッツジェラルド
江湖に落魄して酒を載せて行く
楚腰繊細掌中に軽し
十年一覚揚州の夢
あまし得たり青楼薄倖の名
江南地方で遊び暮らした時には、どこへ行くにも舟に酒樽を乗せて行った。
昔の楚の美女もかくやとばかり、ほっそりとした腰の美女も抱いたものだ。
それから十年、ハッと揚州の夢が覚めてみると、
残ったものは、青楼(いろまち)での浮気男の評判ばかり。
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杜牧、いいね。今日、フィッツジェラルドの「冬の夢」と杜牧の作品群を交互に読み直すという謎読書(笑)をしていたのだけど、そうすると不思議なことが起こった。この作品のような、杜牧の軽妙洒脱な雰囲気に押されたのが大きかったのだろうけれど、とかく美に没入しようとする雰囲気を持つ冬の夢の語り口に、なにかシラけたものを感じてしまったのだ。なにか意図的人工的なものを感じて。
いままで、僕はフィッツジェラルドが、自らの切実なものをそのまま写し取ったのだと、そう信じて疑わなかった。そして、僕もこんな美しい夢のような感性の動きを味わいたい、いや味わわねばならないーとまで、思いつめているような節があった。
でももしかしたら逆なんじゃないか。たしかに書き始めるにあたっては、何かしら書かざるを得ないパッションのようなものがフィッツジェラルドの背中を押したのだろう。しかしいざ書き始めて以降は、彼は小説世界の中でいわば俳優を演じたのではないか。あの夢も涙も哀愁も、作品の中にしかないのだとすれば、僕は彼の演技力を羨みこそすれ、そこに、生きるということそのものにおける感性ー諸々の出来事から深く多様なものを引き出す感性ーを見る必然性などないのかもしれない。
「追体験」というものにはたぶん嘘がある。物語として都合のいい感情が逐一ピックアップされてしまうだろうから。もしフィッツジェラルドが似たような体験をしていたとしても、だから、それをそのまま書き写したなんてことは言えないはずだ。小説とはいわばゴテゴテの加工品なのだろう。そしてそれは、美とは人工的なものである、みたいな話に繋がってくると思うのだけど、さすがに僕の能力を超えている(笑)
ささやかながら女性たちと関わらせてもらって思ったのは、僕は感情のジェットコースターを味わうタイプではないということ。少なくとも、冬の夢のようなきらびやかな抒情は僕の胸からは湧き出しては来なかった。もしかしたらやはり、僕の感性が錆びついてしまっていることもあるのかもしれない。でももう、気にしないことにする。
対象にのめり込むというよりは自然な距離を保ちながら、しかしその距離を(メタ認知のように)離そうとするのではなく、その距離自体を感じ愛する、そんな抒情ー自然な態度だと言いたいのだけどーを作品として表そうとした折に、ある種のスパイスとして要請されるもの、それこそが軽妙洒脱なトーンなのではないか。それはきっと、演技未満の軽いポーズみたいなもの。流れるように洒落た詩を書き続けた詩人が、この星にはたしかにいたのだ。
ちょっと気取ってもいるようなそんなあり方を、作品に結実させることはできていないと思うし、フィッツジェラルド的なトーンに倣えと重たく書こうとしている作品が多かった僕は、そんな過去の自分にも「?」を突きつけたいーありもしない自分を演じていたよね?と。
重いことを否定するわけじゃないけれども、自作を漠然と振り返ってみるに、完成度は低いがコテコテのポエム、というのは往々にして痛々しいことが多いような(苦笑)
今日ようやくにして、僕はフィッツジェラルドだけが模範ではないことに思い至ることができたのだと思う。杜牧的なトーンが1つのたしかな希望となった、そんな休日だった。