ポエム
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ちょっと浮いた彫像のような、でもやっぱり完璧な彼女
 すでに眩くなっている陽射しが彼女の、ノートへと落ちるその理知的な眼差しをくっきりと強めていた。「え〜、で、あるからして…」―先生のその声はもちろん、彼女にだって届いているはずだ。もちろん、そうだとは思う。でもそうしながら、先生の声をその耳でしかと受け止めながら彼女は、もう1つの世界へとその胸をうっすらとひらきつつあるのだと、そう僕は薄ぼんやりと思っている。
 くっきりと区切られた箱のなかの世界があり、そしてきらびやかな緑なす外の世界がある。ちょうど彼女のその、頭上右に位置する新緑は、気持ち拡げられた手指のような控えめなトーンといえどもたしかに、彼女を優しく光溢れる世界へと誘っているよう感じられる。
 けれど彼女は―たとえば少女のようには―決して、いたずらに焦がれたりはしないと思う。だから僕は彼女がたとえば、儚げに遠く山の端を見やったりだとか、そんな所作をする彼女はどんなに美しいだろうかなんてことを思わないわけではないけれど、しかし澄んでいながらじっとりとしてもいるようなあの眼差しは、それが近い日であれ遠いいつかであれ、来たる未来に夢を架けるためにこそいまは、この手元にもあるささやかな代物に注がれるほかないのだという直観は、澄明な彫刻のような彼女の頬に一抹の翳りを落としこの胸を物哀しくも高揚させるのだった。それはそのうちに、厳かに張りつめたなにかを湛えつつひとえに朝を、朗らかで陽気でさえあるような朝を、日々という倦怠をもろともせずに待つ蕾のようで、高貴でありながらなんとも言えずいじらしかった。
 「健気な女」というフレーズが僕を打っていた。そうだ。彼女こそはまさしく、少女ではなく女でなくてはならない。彼女は実にさっぱりとした女性だ。すれ違いざまあの新緑を吹き抜けるそよ風のように彼女は歩き去ってゆき、そうしてこの胸にはただ儚げな黒の揺らめきが残るといった具合に。
 しかし彼女はやはり、優れて潤ってもいるのだと、僕は彼女のあの、あたかも水面に一枚の花びらがそっと触れ落つるかのようなしとやかさでその、か細くも芯の通った5本の指がスマホに触れゆくその手前の、水生生物のように柔らかなゆえに艶かしい、あの滑らかな所作を想っている。
 彼女は真空を泳いでいるのかもしれない―そう僕はあの、上下左右への揺れの極めて微小な、あたかも彫像が動いているかのような歩き来たる様を直覚していた。おそらくはそれがあまりにも完璧なために、僕はそこにある艶を見逃していたのだ。彼女はたしかに泳いでいた。あの折彼女は、空気を裂いて創り出したあるともないとも言えないような清浄な空間のさなかを、その尾びれを仄かに揺らめかせながら旋風のように泳ぎ去ったのだ。
 そのうちに秘められて在り、そしてもちろんこのいまも彼女において在るあのものの気配が、あたかも胸の奥から逆流してきたかのようだった。それはいわば彼女の急所だった。非の打ち所のないあの遊泳において、小僧のいたずらにさえ敗するほどにか弱い部分だった。しかしそもそも垣間見たことすらあっただろうかと記憶をまさぐる。あたかも宮女の部屋の簾のように彼女のそれは、いつもこれでもかというほどにすっぽりとその両脚を覆っている。あるいは彼女はあのものを「健気にひた隠して」いるのかもしれないという直観が、電撃のようにこの胸を打った―

 僕は浜辺に倒れ込んでいた。「いた〜い」と、あたかもアニメの中の女の子のような声がした。顔を上げるとはたして彼女の肢体があった。無防備で白磁のごときその肉体は、あたかも西洋絵画のなかから抜け出してきたかのようだった。しかし僕は右手ひとつ動かさずに、ひとえにその身体を見つめていた。じりじりっとした大気のさなか、彼女の表情は所在なさげになってゆく。そのニュアンスとその、肉感に富んだ太腿の光沢が結びついて溶け合い、僕は再び電撃に打たれたようになってしまった。
 「ね、ねぇ、私になにか用?」
 「いや、澤谷さんの太腿がそんなに綺麗だとは知らなかったものだから」
 「いやらしい人」
 「そうだ、ちょっと泳いでみてくれないかな?澤谷さんが泳ぐ姿、是非見てみたいんだ」
 僕らは立ち上がり海へと向かい始めた。彼女の背は高くもなく低くもなく、そしてその均整は完璧に見えた。こんな完璧な女(ひと)が、しかし自分より背丈が低い―それも10cmほども―というのはなんだか不思議だった。どこまでも不完全な男がしかし、その背丈という項目においては、もっと言えばハッキリと目に見えるという意味で甚大な項目において、非の打ち所のないはずの彼女を圧倒してしまっているのだという事実に、僕はなんだか軽く目眩がするようだった。
 か細くも力強く、そしてやはり驚くほどに白く透き通った足首がさざ波に洗われている。それは彼女の美を過不足なくそこに集約しているかのようだった。しなやかな彫像はそうして海へと浸っていった。なだらかな肩甲骨が、この世界の眼差しを一心に集めるようにして照り輝いた。僕はやはり見惚れるだけになっていた。彼女がくるりと振り返った。水面の煌きがあり、そのじっとりと怪訝な眼差しがあり、そしてその内を湛えられた水滴でより大きく見せているいじらしい胸部があった。


 「こんな夜に、何か用?」
 彼女はワンピース姿で現れた。その胸部は心持ち小さく見えたものの、しおらしい気品に溢れていた。「御婦人」という単語が脳裏に瞬き、それはスラリとしたその身体にのっぴきらない悩ましげなトーンを添えた。
 「ほ、星でも見に行かない?近くの公園にさ」
 思わず吃ってしまっていた。 
 閑静な住宅路を、僕らは2人歩き出した。控えめな臀部は彼女のその、決して過度に主張することのない性格を象徴しているようでありながら、しかしそれでいて、やはりそれなりには突き出されている。その按配こそは、他でもない彼女のその、匂い立ってくるような気品ある色香を伝えて余すところがなかった。いますぐにでも、まさにその少し上にある腰へと手を回したくって仕方がなかった。
 「私ね、正直に言うと、まさかあなたから声をかけられるなんて、思ってもなかったの」
 「はははっ。僕だって、まさか君に声をかけることになるなんて、思ってもみなかったな」
 「嘘ばっかり」
 「本当だともさ」
 彼女の言うとおり、それは嘘だった。嘘もいいところの大嘘だった。けれどさすがに、あなたに声をかけたくて仕方がなくて日夜妄想に精を出してました、などと言えるはずもない。といってもう少しマシな嘘というものがあるような気もしたのだけど、なによりいまは風のような雰囲気を纏いたかったのだ。
 それは「設えられた公園」と呼ぶにふさわしい、こじんまりとしつつも木の配置の美しい公園だった。昼間来ていた折はそこまで感じなかったのだけど、その長方形の空間はあたかも切り取られたかのようで、僕はまるで教室みたいだなと思った。思うや胸は高らかな鼓動を始めた。僕らは木陰になっているベンチに腰を下ろした。ひんやりとした心地よさが手のひらから脳裏へと駆け上がったかのようだった。背すじを伸ばさなくっちゃいけない気がして胸を張った。星空に迎えられたようだった。そっと左隣をチラ見する。彼女もちょうど僕を見ようとしたところで、互いの流し目はそうして交錯し、そしてすぐに気恥ずかしさのなかへとほどけていった。沈黙…
 「でもさぁ、私ホント、こんなに星空ってものが綺麗だってこと、知らなかった」
 「ホント!?ってことはじゃあ、気に入ってもらえたんだね?」
 「ええ、とっても」
 そして再びの、沈黙…やっぱり少し気まずかった。でもそれはなんというか、澄んだ気まずさとでもいうべきものだった。次に言うべき言葉はこのいま、ともに星空を見上げている2人の胸のうちからごく自然に汲み上げられてくるだろうことへの、穏やかな信頼があった。きっと彼女もそう思っているだろうと、やはり流し目のようにして彼女を見る。そのアーモンド型の瞳が追いかけるように右を向きながら見開かれる。
 「ごめん、いや、綺麗だなぁって思って」
 「なによ、それ」
 僕らは笑った。
 「え〜っ、ホントなんなの、それ」 
 彼女はツボに入ったようで、口に手を当てて堪えるように笑っていた。その流れに乗るようにして右肩を寄せてくる。今度こそはと、僕はその腰に左手を回していた。


 1枚の緑の葉が、ひらひらと風に揺られながら僕の前に落ちてきた。僕はそれとなく空を見上げた。吸い込まれそうなと言えば聞こえはいいけれど、僕はふっとなんだかその青に、のっぺりとした虚しさのようなものを感じる。朝からどうしたんだよ自分と、僕は6日前の彼女との公園デートの記憶に意識を向けた。甘ったるいほどだったはずのあの夜はしかし、何かよそよそしいものへと変質していた。ひんやりとしたベンチの感触が甦ると、あたかもそのポイントから寒々としたトーンが全体へと波及したかのように、僕はまるで冬枯れの凍える夜を2人過ごしていたかのような錯覚に囚われていた。"私のこと、好きよね?"と彼女が、やはりその右肩を寄せながら訴えかけるようにささやいてくる。白い吐息が彼女の面を立ち昇ってゆく。その眼差しはまるで虚空から僕を見つめているかのようだった。いまさら怖じ気づいて、どうする!?彼女が周りからちょっぴり浮いてるような女だなんてこと、最初から分かってたことじゃないか…
 やはり彫像のように彼女は、今日も廊下を歩き行くのだろう。そう思うやしかし、廊下は夜の城の回廊へと成り代わっていた。コツ、コツ、コツ…と不気味な音を立てつつ彼女は、なぜだかその開かれた背に弓矢を背負いながら歩いている。金の燭台に灯された蝋の火の群れが、歩き来たる彼女の肢体を妖しく彩り始める。その様を想うや、僕は一目散に校舎へと駆けたくなった。早く彼女を一目見たくて仕方がなかった。一呼吸してなんとか落ち着きを取り戻すと、僕は再び空を見上げた。あたかも温かな光の粒子たちが泡立っているかのようで、なんだかホッとした。僕は2重の意味でホッとしていた。1つには、馴染み深い青空が戻ってきたことがあった。そしてもう1つは、抑えきれそうになかった彼女への欲情を飼いならせたということにほかならなかった。

 まだ始まったばかりだと、僕は自分に言い聞かせていた。ついさきほど彼女に、「おはよ〜」と白い歯がキレカワイイにっこり笑顔で挨拶してもらったところだった。彼女の座る左端前の席から僕の座る右端真ん中の席へと、それは距離をもろともしないインパクトでもって伝えられた。なにが「不気味な女」だろう。朝から1人妄想していた自分が馬鹿みたいだと思うも、しかしすぐとあの余韻に引き込まれそうになるから不思議だった。どちらが本当の彼女なんだろうと、埒のあかないことをぼんやりと考え始める。シャンと伸ばされた彼女の背筋は美しかった。あの回廊での、パックリと背中の開いた彼女の姿が想い出された。けれどこのいま、あの制服シャツを着た彼女に弓矢を背負わせてみたとしてもおそらくは、罰ゲームかなにかで嫌々やらされているかのような滑稽さを感じるだけだろう。けれどその想像にはなにか釣り込まれるような魅惑があった。僕は彼女のその、気恥ずかしげな矢を射るポーズを呆けたように眺めていた。

 彼女と並んで下校路を行きつつ、僕はふと思う。5月というのはなんだか不思議な季節だと。鮮やかで輝いているといえば聞こえはいい。けれど別の見方をすればそれは、緑という単色に支配された単調な季節だということにほかならない。その遠慮のないトーンは、ほんの一ヶ月ちょっと前の薄紅色の感触などはなからこの地上には存在しなかったのだと語っているようにすら見える。儚げな散り桜の情景から断絶した形で、世界はいわば新たに生まれ直したのだ。そう殊更に思うのはあるいは、澤谷香澄という女性に惹かれ始めたのが、ちょうど緑がその枝を整然と覆いつつあった頃のことだったからかもしれない。いずれにせよ僕は、満開の下の彼女も、春霞の中の彼女もいまだ知らないのだ。僕はまだ、彼女のなにも知らないのだ。
 「ねぇ、私が巫女さんのコスプレなんかしたら、和也くんはどう思う?」
 彼女はそう、なんだか気恥ずかしげに訊いてきた。「コスプレ」という言葉に、なんだかさきの弓矢のポーズを妄想してはニヤけていた自分を見透かされたようで、ドキッとする。
 「は、恥ずかしそうな君が目に映るようで、うん、なんかすごい、可愛いだろうなって、思うよ」
 また少し吃ってしまった。けれどそんなところも含め、精一杯に気持ちを伝えた自分がいまはなんだか愛おしい。
 「わたしね、巫女さんに憧れがあるんだ」と、どことなく神妙に彼女は語り始めた。それは僕を新たな時空へと導き開くようだった。
 煌々とした満月の光のさなか、彼女はひとえに仄かな、仄かな葉擦れの音にその耳をそばだてながら佇んでいる。その唇は妖しい艶を仄見せながらも、その黒髪は永遠のしおらしさを約束しているかのようだった。
 彼女はこの世界というものに対して、ある種の諦念を介して相対していた。それは男という存在が、あるいは一生かかっても獲得し得ないのではないかというほどに澄んだ、いわば水鏡のような諦念だった。輝ける夜にこそ彼女は、その胸のうちに鏡面を眼差し、そうして現にある己よりもいくらか控えめな自己を見出し、密やかな自負とともに紅を潜り俗世へと還り来たるのだ。
 「ねぇ、聞いてる?」
 彼女の声が胸のうちに木霊する。蛙のそれのように愛らしいその右手指に、僕はそっと左手指を絡めていた。
24/02/14 18:04更新 / はちみつ



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■作者メッセージ
お久しぶりです、雪月統です。もう二度と書き込むことはない、書き込みがあったとすればそれは偽物だ―とまで言いながらアレですが、はい、復活させていただくことになりました(苦笑)理由は、B-REVIEWの月2作縛りに我慢できなくなったことです(笑)この作品はB-REVIEWに投稿しようと思い書いたのですが、もうすでに2作投稿した僕は、3月に入るまで投稿できないわけです。そんなわけで、我慢できずに小部屋に書かせていただくことにしました。たぶん3月になればB-REVIEWにも投稿すると思いますが(笑)ともあれ、正真正銘の本物です、こういう作風に変化したこともありペースはときたま投稿するという程度になると思いますが、何卒よろしくお願いいたします。

今作について:葉っぱが落ちてくるところはやはり無理筋だったような気がいたします(汗)でも今作で、小説的な散文詩こそ目指したいものだっていう自分の趣向がはっきりした気がしています。でもいつかは、詩のような小説、書けるようにならないかなぁ…なんてね。なんだか欲が出てきました(苦笑)調律された原稿用紙3、40枚の小説の書ける日を、夢見ている自分がいます。

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