読切小説
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テニスと青春


 
 縦方向に高速回転したボールが左頬を背後から掠めていく。対角線に放たれたスピード、コースともに申し分のない一球。相手後衛はボールの左側に回り込む余裕もなく、そのままバックハンドのフォームをとった。

 これはクロスだな。視線は動かさず、素早く一歩、二歩。左足を左斜め前に、左肩は後ろに、右肘を突きだす。

 来い。

 俺はコートの真ん中に飛び出した。しかし、ボールは予想を外れて右を抜けていった。

 あの野郎、バックで勝負仕掛けてきやがったのか。大した自信だ。全国大会に毎年出ている高校の選手なだけはある。

「この状況は良くないな」

 ゲームカウントは3オール。ファイナルゲームは一進一退の攻防でついにデュースにまでもつれ込んだ。だが、ここで俺の失点。あと一点取られたら試合に負けてしまう。

 思わず後方で息を荒げている達也に目を向けてしまう。悲しいかな、傍目にも疲れていることがよくわかる。残念だがこれ以上アイツが得点を取ることは難しいだろう。達也が狙われて動けなくなる前に何とかしなくちゃならない。

 要するにピンチというわけだ。俺はため息をついてから帽子を深くかぶり直した。

「達也! 野田君! 負けないで!」

 咲良の声が遠く聞こえる。

 
 2

 
 校門横のレンガ壁に寄りかかっていると咲良が一人で来た。達也は家の用事だかなんだかで車で帰ったらしい。そういえば、咲良と二人きりで帰るのはいつぶりだろうか。何しろ俺たち三人は隣家に住む小さい頃からの幼馴染同士なのだから、小学校、中学校、高校と毎日横並びで帰っていた。

 俺たちは、まあ自分で言うのも変なのかもしれないが、気心知れた間柄というやつでお互いにあまり遠慮がない。しかし今日の咲良は、快活な彼女の性格には珍しく口数が少ないように思える。

「何かあったのか?」

 桜はびくりと背筋を正して、俺と目を合わせた。不安と真剣さの混じったようなまなざしをしていた。

「あのさ、だれにも言わないって約束してくれる?」

「いいけど」

 嫌な予感がした。

「……あたし、達也のことが好きなんだ、と思う」

 咲良は恥ずかしそうに目を伏せてそう言った。一方、俺は突然の吐露に視界が揺らぎ、内臓を握られたような気がして、少しの間言葉が出せなかった。

「ねえ、野田君?」

「悪い、ちゃんと聞いてる」

 何となくそんな気はしていた。部活中に彼女を見ればいつだって達也の方を向いていたし、最近の下校中の二人の距離は触れそうなほど近いのだ。ただ、やはり、面と向かって伝えられると辛いものがあった。

「それで、咲良はどうしたいんだ?」

 逃げ出してしまいたがったが、内面を悟られないように話を進める。まあ何を言っているのかあまり頭に入ってこないのだが。

 ただ、一つはっきりと確信していることがある。咲良の願いを思えば、俺はもう咲良とは一緒にいられないということだ。

 
 3

 
 川本達也。学業、交友関係、容姿、運動、何をとっても俺の先を歩き続ける存在だ。別に嫌いなわけじゃない。むしろ尊敬しているくらいだ。

「俺、この試合に勝ったら咲良に告白するんだ」

 なにいってんだこいつ、ドラマ観すぎだっての。テニス部の先生方が決勝戦の準備をしている中、体操をしていると、達也が俺にだけ聞こえる声で呟いた。

 咲良の努力の賜物だろうか、近頃何かと都合をつけて二人から離れていた俺にはよくわからない。だって好きな子が別の男をオとそうと頑張っているところなんて目に入れたくないだろう。それに二人が遠くに離れて行ってしまうような気がして嫌なんだよ。アレ、意外とさみしがり屋なんだな、俺。

「勝ちたいか?」

 フェンスの外で待機している咲良を見ながら尋ねた。

「うん、勝ちたいね」

 ガラガラと三人の関係が崩れていく音を幻聴した。まったく、試合前にモチベーションを落とさせるなよな。

 気晴らしにもならないが、相手選手に集中することにした。コートを挟んでベンチに座る二人はこの辺なら誰もが知っている選手だ。私立の強豪校らしいやり方で他県からスカウトされてきたらしく、噂では学費免除どころか金まで貰っているらしい。さぞおモテになるんでしょうね。あーあ、俺以外みんな嫌な奴だ。

 一人で萎えているとコートに集められて試合が始まった。相手選手はどこまでも完璧なプレーで魅せる。達也も俊敏な動きと力強いストロークで噛みついていく。試合が均衡しているのは偏に達也の働きがあるからだろう。もしかして愛のパワーってやつなのかな。

「だとしたら羨ましい限りだッ」

 バランスを失った相手後衛のショットを叩く。ボールは白線ギリギリをこすって砂を散らす。1セット目はこちらがもぎ取った。

「達也すごいじゃん! このままいけば勝てるよ!」

 水を飲む俺たちの前で咲良が飛び跳ねている。でもその目に映るのは達也だけだ。胸の奥が鈍く痛むような気がした。

 達也がタオルを水筒に掛けて、ハイタッチしてきた。

「勝とう」
「ああ」

 勝とう、ね。

 咲良の応援を受けた達也は2セット目も好調だった。キレの良い球は相手を寄せ付けず、得点のたびに歓声が上がる。この輝かしい舞台のヒーローは達也だ。俺はわき役に過ぎない。そう思えばこそ、達也が妬ましく、心の内側が暗くなっていく。情けない話だ。

 ……早く、終わってくれ。

 その瞬間、ボールがフレームを弾いた重たい音がした。ボールは歪な回転をしながらふわふわと頭上に飛んできた。スマッシュか。目線を高く置く。しかし、なぜか視界がチカチカとさざめき、狭く、暗く、縮んでいく。

 そんなまさか! 

 ラケットは空振り、ボールは俺たちのコートに落ちた。3セット目はそのまま相手に奪われた。どうやらこの失点を機に試合の流れが完全に折れてしまったようだ。

 
 4

 
 もともと俺はテニスに興味があったわけでもない。クラブチームに通っていた達也が咲良と俺を高校のテニス部に誘い、俺も三人でいられるならいいかと入部しただけだ。

 入部してまず知ったのは達也のテニスへの想いの深さだった。誰よりも優れた技量を持ちながら、驕ることはなく、むしろ積極的に基礎練習やトレーニングを行う。また、どんな厳しい球でも諦めることなく追い続けて、最後には打ち負かしてしまう。いつだってすごい奴だと思っていた。

 その達也が今、窮地に立たされている。息も絶え絶えで放っておけばすぐに倒れてしまいそうだ。だが、達也は走り続ける。鋭いショットも、取れるはずのないボレーも必死に打ち返している。

「どうしてそこまでやるんだ」

 試合中にもかかわらずつい聞いてしまった。

「……テニスが好きなんだ。それに咲良も。それだけ」

 達也はユニフォームの袖で汗を拭きながら笑った。
 ……勝てないな、コイツには。

「なんだよ、その顔」
「なんでもねえ。勝とうぜ」
「おう!」

 本日二回目のハイタッチをしてからポジションに戻る。

 この時点でゲームカウントは2対3で押されていたが、持ち直した達也のおかげでファイナルゲームへと進むことになる。

 なんだかんだいって達也は強い。怒涛の追い上げの先についにデュースへともつれ込んだ。しかし、ここで俺は相手後衛にバックで勝負を仕掛けられ、得点を許してしまった。

「この状況は良くないな」

 達也はもうギリギリだ。俺はため息をついてから帽子を深くかぶり直した。

「達也! 野田君! 負けないで!」

 息が震える。ここが勝負の大一番、緊張で体が硬くなってしまう。本当に勝てるのか。

 突如、正面から稲妻のような一球が俺のすぐ横を抜けていった。

 ──まずいッ。

 引き延ばされた意識の中、振り返ると達也が走り出した。捨て身の動きだ。後のことなんて考えてない。この一球に命を懸ける。まさに無二の一球。

「負けられないんだ!」

 打ち返されたボールは相手コートの白線を削った。まだ、負けてない。しかし、次のポイントはラリーに入る前に達也がネットに引っ掛けた。

「おい、どうした」

 達也は涙目で答えた。

「……ごめん、さっきので足首を痛めた。勝ちたいな、でもこれじゃ」

「そんなことない! 俺が何とかする!」

 帽子をコートの外に投げて、大きく息を吸い込んで吐く。ポジションに着いて、ラケットを回す。達也にボールが行く前に俺が決めるしかない。

 来い。

 相手後衛の正面に立って顔を見る。目が合った。気持ち早めに体を傾けてクロスボレーに出る姿を見せつける。相手後衛はコートと垂直に両足を前後に揃える。このフォームはストレートか。

 引っかかったな、フェイントだ。振り払うように右腕を伸ばし、ボールは相手前衛の後ろ足首を触りながらコートの外にはじき出された。

 達也が近寄って来る。もうその顔に陰りはない。

「ありがとう、もう少し頑張れそうだよ」
「そうだな、咲良のためにも頑張ってやれ」

「デュースアゲイン!」

 接戦はふり出しに戻る。俺たちの関係もふり出しに戻る、訳ないか。後衛同士のラリーが続く。さすがに二回目の勝負を仕掛けるほど相手も豪胆ではないらしい。

 俺以外の選手は優位性を保つべく慎重なプレーばかりしている。いったい何を恐れているのか。試合に負けること、プライドを損なうこと、咲良に思いを伝えられなくなること、そんなこと知らねえ。俺には何もないんだ。持たざる者の意地、示してやるよ。

 再びクロスボレーに出る。相手選手を睨みつける。目をそらされた。今度こそ逃げのクロスだな。角度のあるコースを予測して、一歩大きく、舞台に躍り出る。飛んできたボールはラケットの壁に阻まれて落ちた。

「アドバンテージサーバー!」

 次の一点を決めれば俺たちは勝つ。取りたいが、取りたくもない一点だ。駄目だ、弱気になるな。ラケットで下肢を殴る。俺はボレーに出ることだけを考えていればいいんだ。それ以上はできないのだから。
 相手後衛がフォアハンドの構えをとった。顔を見ると、彼は不安と真剣さの混じったようなまなざしをしていた。

『……あたし、達也のことが好きなんだ、と思う』

 やめてくれ。それを思い出させるな。

 ひるんだ俺の横を再びボールが抜けていく。勝っても負けてもどうせ二人からは離れるんだ。でも、勝ちたくないと思う自分もやはりそこにいる。

「野田! 諦めるな!」

 ろくに動けないであろう達也が最後の力を振り絞ってトップストロークを放った。相手後衛はその球をまともに受けきれず、高く上げてしまう。

 まったく、損な役回りだ。左腕を挙げてスマッシュのフォームを作る。広い青空にボールが浮かんでいる。願わくばそのまま左手でつかんでしまいたいが。

「野田君!」

 わかってるよ。
 そんなことは、わかっている。
 つかめそうなほど近いボールを、俺は全力で叩きつけた。

 
 5

 
 授賞式は終わり、辺りも薄暗く、たくさんいた観客や他校の生徒たちがいそいそと去っていく。

「じゃ、先に帰るから。達也、後はお前だな」

 二人にウィンクすると、咲良は首を傾げ、達也は顔をこわばらせた。そんなに緊張しなくてもいいんだけどな。どうせ両想いだし。

「ありがとう」
「うん、ホント格好良かったよ」

 ……ん。

「じゃあな」

 俺は二人を背にして歩き始めた。何となく自販機でコーヒーを買ってみたが、飲む気にはならずプルタブを指ではじいて遊んでいるだけだ。もうそろそろ告白したかな。咲良も振ることなんてないだろう。

 わかっている。二人は男女の仲に進んだとしても俺のことをないがしろにするような人ではない。でも、変わってしまった関係はいつか俺のことを疎ましく思わせる瞬間を訪れさせる。ならばいっそ、邪魔になる前に消えてしまいたい。

 遠く沈む夕日を影に立ち並ぶ木々は黒く染まり、その奥にかすかに残った夕焼けが山の輪郭を曖昧にしている。

「結構苦いんだな、コーヒー」

 俺は空き缶をゴミ箱に捨てた。
                    (了)  
20/01/03 09:54更新 / 木縁魚求

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