道を拓く(歎異抄を読んで)
最近はまっている古典
昔の人々の感性に共感できるところはあるが
ところどころ突っ込みを入れるのが
癖になっている私
今回は
歎異抄について
浄土真宗の開祖、親鸞が唱える
「他力本願」
歎異抄とは
「南無阿弥陀仏を唱えれば
どんな者でも
阿弥陀様の力を借りて浄土に行ける」という信条について
書き記した書物であり
「仏様の力を借りるのだから
善行を積もうが悪行を積もうが
関係ない」
「みんなまとめて
救って下さるのだから
ありがたい話だ」
というのが
他力本願だ
確かに
あらゆる欲や煩悩を断ち
行をこなさなければ
浄土に行けないというのも
悲しい話だ
行をこなすどころか
日々の生活に困窮する人々にとっては
この他力本願という思想は
表面的に見れば
凄くありがたいものだったろう
ただ
私はこの思想に
どうしても共感が持てない
歎異抄の中身では
「庶民がどれだけ頑張って善いことをしても
仏様に近づくなんて無理だから
余計なことしなくていいから
阿弥陀様にあやかりなさい」みたいなことが
書かれている
私はこの内容が
どうしても解せない
何もしなくても
仏様にあやかれば救われる
確かに楽だろうけれど
それって
数学の問題の答えだけ見て
肝心の解き方を理解しないで
知ったかぶるような感じではないか?
浄土に行くとしても
浄土に行ったという結果だけが大事なのでは無く
浄土に行くまでの過程がより重要なのでは?と思う
結果は
過程が積み重なって成るものだ
数学の答えを知っていても
自分で解くことが出来ない
解き方を理解していなければ
話にならないのと同じで
浄土に行っても
それなりの徳を積んでいなければ
誰にも相手にされないし
何も出来ない
楽園にいれば幸せなんて
ただの幻想だ
仏様に救われればそれでいい
浄土に行ければ良い
自分は何も
努力しなくて良い
それは浅はかで
短絡的な考えだと思う
仏様の道は
厳しい修行という形を取らなくてもいいと思う
だって
この世の中を生きていくだけで
自然に修行になっている
自分の人生で
ただ、起こることについて意味を問いながら
答えを出していくこと
それだけで
十分だと思う
仏様と全く同じ答えは出せなくて良い
むしろ違っていて良い
ただ
意味を問いながら答えを出す
それを積重ねていけば
自然に道は拓けていく
仏様の力に依存して
道を拓くことを怠けては
生きている意味が無い
それぞれが
自分の人生の責任を持って
自分の生きる力を伸ばし
答えを出していくこと
道を拓くには
仏様の助力はあっても
心の芯は自立していなければいけない
私はそんなことを思ってしまう
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