悔し涙
泣くからにはそれだけの理由がある筈で、
それがないのならば、決して泣いてはならぬ。
それが此の世界に対するための最低限の礼儀で、
それが守れないやうならば、
存在する価値などないのだ。
泣く理由があったとして、
その理由が利己的ならば、それは欺瞞である。
利他的な理由のみ、存在が泣ける理由になるのだ。
此処で、排他的な理由で泣くものは、直ぐさま滅するがいい。
そもそも存在と言ふのは、屈辱的なものなのであり、
それが解らぬやうでは存在する価値すらないのだ。
ドストエフスキイの言葉を借りれば、
それは虱や南京虫にも為れぬ代物。
存在するにはそもそも此の世界に対する敗北を承認しながら、
悔し涙を流し、さうして世界に屹立するのだ。
此の世に屹立するとはそれほどに屈辱的であり、
それに歯を食ひ縛りながら両の脚で立つ事のみが、
唯一、現存在が己の位置を確認出来る方法で、
それなくして、存在しちまふものは、
未だ存在に至らずに懊悩を知らぬ童に等しく、
そんな現存在は気色が悪くていけない。
現存在以外の存在、つまり、森羅万象もまた、
名状し難き屈辱の中にあり、
それがある故に絶えず変容し、
変容する事で「理想」のものへと至るかもしれぬ淡い願望を抱きながらも、
何時もそれに裏切られ悔し涙を流すのだ。
此の世に満ちる存在の怨嗟は群れをなして彷徨き回り、
存在の影に取り憑く。
さうして、過去世に存在したものもまた、絶えず現在にあり得、
また、未来にもあり得るのだ。
その為に、世界は幾ばくの悔し涙を欲してゐたのか。
世界を変容させる起動力は、
存在の怨嗟と屈辱に屈した悔し涙であるのだ。
ならば、存在は悔し涙を流せばいい。
さすれば、世界は少しは恐怖を知るかもしれぬのだ。
現存在の夢は、つまり、此の宇宙を存在の怨嗟で
恐怖のどん底に落とし震へ上がらせる事なのだ。
それが為し得た暁に、やうやっと存在はその使命を終へる。
さうして現存在は双肩でアトラスの如く蒼穹を支へ、
自分の居場所を確保する。
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