薄明の幻影
うっすらと雲間から顔を出した満月の赤赤とした相貌にどきりとしつつ、
この宵闇へと真っ直ぐに突き進む薄明の時間にこそ、
俺の欣求した世界が寝転がってゐるかもしれぬ。
終日のたりのたりかなと蕪村は詠んだが、
この薄明の時間にこそにのたりのたりと移ろひゆく時間の尻尾が見えるのだ。
黒尽くめの衣装に身を包み虚構の中での幻影の華を具現化しやうと
のたうち回って現実を食ひ散らかし最期まで艶やかだった女の歌ひ手は
別離の歌を残して此の世を去ったが、
彼女はこの薄明の時間が最も好きだったのかもしれず、
それを聞かず仕舞ひで先に逝かれてしまったの事は無念である。
それでもこの赤赤とした満月にも似た彼女の艶やかさは、
俺の五蘊場では今も尚、存在する。
プルーストは『失われた時間を求めて』で、
時間の多相性を浮き彫りにし、
リルケは『マルテの手記』で、
哀切に満ちた時間ののっぺりとした相貌に出会(でくは)してゐる。
ところが、俺は時間の無限の相貌に面食らひ
今も尚、それに対して収拾が付かぬまま、
時間を今のところひっ捕まへる事はせずに
抛っておいてゐるのであったが、
しかし、時間の方がそれに焦れて、
俺にちょっかいを出しては
俺を弄び出したのだ。
何をして俺は時間を時間として捉へる事が可能なのか
その漠然とし、百面相に非ず、その無限相に戸惑ひつつも、
終日のたりのたりと時間を追ひ始めたのである。
尤も時間は無限相故に
何をひっ捕まへて
――見て見て、これが時間だよ。
と、言へるのかが定かでなく、
また、それを行った事があるのは、
お目出度い科学者達であるが、
しかし、それに全く満足出来ない俺は、
――相対論と量子論との橋渡しとしての超多時間論に与せず。
と、宣言してみるのであるが、しかし、時間がそれを許さぬ。
敢へて言ふなれば、時間が一次形式である理由は何処にもなく、
俺は時間こそが∞次元を持ったものとして把捉するのであった。
つまり、それは森羅万象こそが時間であって、
変容を、例へば時計で計測する「経過時間」として数値化する馬鹿はせずに、
無限形式の時間の相の下で森羅万象が生滅する事を全的に受容するといふ
時間の解放を試みるのであるが、
それは現時点では、悉く失敗してゐる。
この宵闇が近づく薄明の中、
幻影の華を具現化する事に腐心した彼女は、
赤赤とした満月の色の口紅を塗ってゐたのだ。
月にその性が連関してゐる女の妖しさは、
薄明の中にこそ映えるもので、
この赤赤とした相貌の満月は、
妖しく猥褻な輝きを放ち、
男を誑かし始める。
それはそれで善しとする俺は、
女を求めて薄明の幻影の中を彷徨ふ。
其処にこそ時間の綾があると看做す俺は、
性交に現を抜かし、
それでも時間の尻尾を捕まへ損ねる。
ざまあないと、自嘲してみるのであるが、
それは時間の方も同じで、
あかんべを俺にして見せて、
哄笑するのだ。
その一筋縄ではゆかぬ時間の把捉は
しかし、俺の手には余り、
そもそも抽象的なものが苦手な俺は、
漠然と「世界を握り潰す」と言ふ観念を抱きつつ、
時間の正体を探らうとしてみるのである。
しかしながら、時間と言ふものは逃げ足が速く、
俺に「現在」のみを残してはさっさと逃げ去り、
その逃げ足に俺は決して追ひ付けぬのだ。
哀しい哉、俺は現在にしか存在出来ず、
過去相、未来相は、五蘊場の中にのみ表象可能で、
また、未来に対する蓋然性は、
絶えず現在を揺籃するのだ。
つまり、俺が留め置かれる現在は、絶えず揺れ動き、それが定まることはなく、
しかし、現在が過去となり、五蘊場の中のみで表象可能な状況にあっても、
過去相もまた、無数の解釈が可能で、
その蓋然性は未来相と同じなのだ。
しかし、時間は非可逆的と言はれてゐるが
果たして本当にさうなのかは、
此の世が終末を迎へてみなければ解らぬもので、
多分、死んだもの達の念は未来永劫消滅することなく、
此の世の終はりを
瞼に焼き付けるべく、
ぢっと息を潜め、
薄明の幻影の中で蹲ってゐるに違ひない。
あの赤赤とした満月の色は死んだもの達の念の色なのかもしれず、
その艶やかな色合ひは、
男を誑かし、
女をも誑かすのだ。
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