陰翳
夕闇も深まる時、
森羅万象は一斉に陰翳に色めき立つ。
ざわざわとひそひそ話を始めるものたちは、
吾が存在により生じる陰翳に、
己の己に対するずれを確認しながら、
自分の居場所から離れてゆく。
何て心地よい時か。
俺が俺から離れる時に生じる俺の陰翳に
俺は快哉を送るのだ。
何故って、
俺が俺からずれると言ふ得も言はれぬ感覚は
全て陰翳として可視化され、
また、その陰翳には俺の異形が犇めき合ふのだ。
昼間は影を潜めてゐた異形のものたちは、
世界に陰翳が生じる此の夕闇深き時に、
その重たい頭を擡げ、
森羅万象に生じる陰翳に水を得た魚のやうに
自在に動き回り始める。
その時こそ、俺は俺から一時遁れる。
此の至福の時に、俺は安寧の声を上げで、
しみじみと俺を振り払ひ、
俺から遁れた俺を抛っておくのだ。
そして、俺が抜けた俺の抜け殻は、
最早俺である必然はなくなり、
俺もまた、陰翳に惑はされるやうに
抜け殻の俺は何ものかに変容する。
そして、存在の化かし合ひが始まるのだ。
いづれが狐か狸かは問はずとも、
此の化かし合ひについつい夢中になり、
あっと言ふ間に夜の帳が降りてくる。
宵闇の中に溶けゆく存在の陰翳は
更に自在に蠢き回り、
最早、いづれが俺なのかは判別不可能なのだ。
そんな夜の帳の中、
いづれも生き生きとしてゐて
闇に溶けた陰翳は、
石原吉郎の「海を流れる川」といふ言葉が指す存在の意地を抱きながら、
夜の闇の中を陰翳として存在するのだ。
その陰翳のある範囲が俺の居場所。
しかし、闇と陰翳の境界は消し飛び、
俺を意識することでのみ俺の存在は担保される。
「意識=存在」を説いた先人に埴谷雄高がゐたが、
夜の宵闇に消え入る森羅万象の陰翳は、
意識=存在を体現してゐるのでないのか。
闇の中ではいづれもが己が己である事を意識せずば、
存在が闇に溶けきってしまふのだ。
陰翳とは、かくも存在に結び付いてゐて、
陰翳と存在の親和性は抜群に高く、
さうして、また、陰翳ほど俺を裏切るものはない。
陰翳は一度現はれると
陰翳そのものも陰翳である事に承服しかねてゐて、
陰翳こそ、自在に陰翳から離れて飛び立ちたいのだ。
森羅万象はその陰翳の憤懣を知りつつも、
唯、陰翳に甘えてゐるのだ。
何故って、陰翳の憤懣こそ異形のものたちの活力なのだ。
辺りはすっかりと夜に沈み、闇ばかりが尊大になるこの時、
陰翳はやうやっと陰翳からの解放を得、
さうして自在になったのか。
それとも陰翳は此の闇の中、己の存在を尚更意識して、
陰翳の存在に固執するのか。
俺は此の闇の中、俺である事を已めず、
異形の吾たちが俺をいたぶる事に快楽を覚え、
一方、俺は、それに何故だか意地があって堪へ忍ぶのだ。
さうして夜通し俺は暴力的な異形の吾と対峙しながら、
只管、俺は瞑目するのだ。
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