死の爆風
仮に生者が死の領域へと踏み出した時、
星が大爆発をして死んでゆくやうに
現存在もまた大爆発をして死するに違ひない。
そして、その爆風は死すべき現存在が
此の世に未完で終はってしまった事を託すべきものに
その未完の思念を念により託すに違ひないとも言へないか。
星の死す時、X線やら瓦斯やら塵埃やらを吹き散らし、
そして、星そのものは自身の重みに堪へ切れずに自身で自身に圧し潰され、
さうして星の中心部は自ら潰れ行き、
途轍もなく小さく、
そして、途轍もなく重い物質となり、
白色に輝くものがあれば、また、光すら逃さぬBlack holeへと
移りゆくものがあると言はれてゐるが、
さて、その死んだ星が放出したものは
やがて他の星に届き、
其処に死の知らせを伝播するのであるが、
これと同じ事が現存在の死にも起きてゐて、
現存在が死に足を踏み入れた時に
死にゆくものとの念の波長が
ぴたりと合った現存在にのみ感じ取れる念を伝播させ、
その念によりそれを受け取った現存在は
問答無用にその伝播した念に導かれるやうにして
死者の思ひを受け継ぐことのみを
現存在はその生を生きる事を宿命づけられ、
その念を成就する事に血道を挙げるのだ。
仮にその念をギリシャ語の死の神を意味するタナトスを捩って
タナトストンと名付ければ、
そのタナトストンを捕縛し、
さうしてタナトストンが渦動する「杭」として現存在が此の世に立つのならば、
それは現存在の本望ではないのか。
死者の伝言の念が感じ取れてしまふ現存在は、
その死者のタナトストンを受け取り次第、
死者のタナトストンを成就するべく、
敢然と立ち上がり、
さうして只管死者の念の成就にのみ生を捧げるべきなのだ。
一方で、タナトストンを認識出来てしまふ現存在は本来不幸そのもので、
その生は不合理そのものに違ひないのであるが、
しかし、生とはそもそも不合理で現存在がどうにか出来るものではなく、
死者のタナトストンに無理矢理引き寄せられてしまった現存在は
その生の不合理を呪ったところで最早手遅れで、
そのタナトストンを全うする事のみに生を捧げ、
それに満足せねばならぬのだ。
死の爆風はタナトストンを全宇宙に向けて放出し、
そのタナトストンを受容してしまった現存在は
もう覚悟を決めねばならぬ。
それが唯一生者に残された生の道であり、
また、死者に対しての最低限の礼儀であり、
さうして漸く現存在は現存在足り得るのだ。
俳句一句短歌一首
珈琲を淹れて独り中秋の名月
何ものに為り得るのかも知らずしてさうだからこそ輝く生あり
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