哀しき光線
ひとたび発せられてしまふと、
仮に宇宙が有限だとして
もう宇宙を一周する以外に元の場所に戻れぬ素粒子どもの中でも、
光子は特に哀しいのかもしれぬ。
或る人は何物にもぶつかることが殆どないニュートリノが哀しいと言ったが、
Energy(エナジー)に物質を変換する光速度で飛び回る光はといふと、
量子と反量子との衝突による対消滅で発せられる光が、
最期の存在の断末魔であり、または、最期の存在の大輪の花火であるかもしれぬ。
毎夜、空目掛けて発せられるLaser(レーザー)光線の哀惜は
それが最早この地に戻れぬことなのだ。
自身の誕生の地に二度と戻れぬ光線を何の躊躇ひも感ぜずに発せられる人間の傲慢は、
光を自在に操れる此の世の王とでも思ってゐるのか、
何の躊躇もなく、毎夜無数のLaser光線が空目掛けて発せられる。
その哀しみを感じてしまったもののみ、手を合はせ、
南無と、若しくは桑原桑原と光の復讐を恐れるのだ。
それを杞憂と嗤ってゐられる存在は、
なんとお目出度い存在なのか。
光に焦がれて焼死するのはいとも簡単なのだ。
例へば炎の光は、物質を焦がし、生物を焼死させる。
稲妻は感電死させ、若しくは焼死させるのだ。
身近な光の怖さを知ってゐる筈の人間は、
しかしながら、光の復讐に思ひ至らず
火事の炎の光と太陽光の核融合により発せられた光とを分別して、
火事の炎の光を恐れ、太陽光の光線には慈悲すら感じてゐるのだ。
此の区別は何処から来るのかといふと、
距離の違ひでしかない。
炎の怖さを知ってゐるものは、囲炉裏の火を消すことなく、
何百年も炎を燃やし続け、火の神様を敬ってゐる。
火が身近なものほど、
火を崇めるのだ。
Zoroaster(ゾロアスター)教ではないが、
炎の光をぢっと眺めてゐると、
其処には大いなる慈悲深さと癒やしの大河の片鱗を見、
それは自ずと太陽光へ、
若しくは宇宙の涯の星の輝き、そして、素粒子と結びつくのが現代人ではないのか。
しかしながら、Laser光線を天へ目掛けて発する人間の罪深さに対して
それを哀しむ存在に思ひを馳せることもなく、
今日も人間はLaser光線を天目掛けて発して興じてゐる馬鹿者なのだ。
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