「考えなくたっていいのよ」

  
 きらびやかな陽射しを遮る木々の、こんもりとした緑の下の一本道の、向かって右側遠くの陰のなかから彼女は、緩やかにその身体を大きくしつつしとやかに歩いてきたのだけど、そこにはさらに言いようのない、しいて言えばあたかも目を瞑りながらあゆみ来たっていたような、そんな微細で流れるようなニュアンスがあった。季節は5月。彼女は紺の半袖シャツを着ていて、そして胸が豊かだった。
 もしまじまじと彼女を見つめたならば−と、僕は一寸、彼女のその凛とした姿を静止画のように眺めた―それ(ら)は、それこそ一対の弾頭のようにこちらに迫ってくるのだけど、こうして振り返るなかで彼女からスーッと、その表情の定かでない折りからこの頬へと、あたかも和やかな微風の伝ってきていたかのような微睡みのなかでは、現実には"それ"をピッチリと覆っているシャツの締まり具合は弛くなっているようであり、またその紺が不思議にも遥か古代より染み出してきた藍(あい)色のように思えてきて、"それ"は朧(おぼろ)で温かな輪郭としてこの胸に揺蕩い満ちてくるのだった。
 
 …僕は(も)目を瞑った。彼女が右胸の横を風のように通り過ぎていくのが分かった。アパートに帰ると、どっと重力を感じた気がした。無色明太子に玄米ご飯が進んだ。40手前の侘しさが、背に雪のように降り積もっているようだった。

 翌朝起きるとすぐに、いつもは閉めっぱなしの薄緑色のカーテンを開けた。もちろん(?)、あの女(ひと)は居なかった。しかしとかく不思議だった。彼女が歩み来たり、そしてすれ違った一本道は、他でもなくこのアパートの真横を走る、カーテンを開けさえすればこうして、いつでも目に収めることのできてしまう道なのだ。
 気づけば"できてしまう"と表現していたことについて、僕は考える。もちろん、単なる偶然だったのかもしれない。しかしやはり、彼女に対する両義的な気持ちがつい言葉になって現れたのだと考えるのが妥当だと、僕は思うことにした。
 まだ6時を過ぎたばかりで、僕のあるかなきかのボキャブラリーで表現するならば、大気は黒みがかった青色をしていた。もし彼女がいま歩いてきたらと思うと、僕はなんだか身震いしたかのようになった。あの黒いポニーテールは、たしかにゆらゆらと揺れていた。しかしこの深い青のさなかでは、それは"ユラユラと"揺れるに違いないと僕は思ったのだけと、その"ユラユラと"すらもユラユラ揺れ出すんじゃないかという気さえした。つまりは何重にも揺れるだろうと思う。  
 そしてそれとまさしく対比的にあの、あの厳かな胸は、空間のさなかに重々しく鎮座しているに違いないーと、僕はそれ(ら)があたかも、その2点に万物のエネルギーのようなものをあまねく凝集させているかのような、そんな感覚すら抱いてきた。といってこの胸中のうちの、その背後で仄かに、たとえば万物の母たる乳房といった、そんな甘やかなイメージが揺蕩っていたわけではないと思う。そうではなく、少なくとも僕の感覚に従うならば、その(あの)胸は、空間へと突き出れたフォルムそれ自体にその力を宿しているようだった。そこにはいかなるイメージも介在する余地はないようだった。もちろん、僕はこの胸がなにがしかの暗いイメージに浸される予感を感じている。しかしそれはあくまで、胸がその強烈さに撃たれることで引き起こされる事後的な反応にすぎない。
 彼女の胸のそのカタチは、少なくともシャツの上から見た限り、完璧だった。それは自らの存在を深い青に、その輪郭をぼかされることによってかえって際立たせてくるのではないか。もしほんとうに彼女が歩いてきたならば、僕は瞬く間に、定かではないがゆえに暗い青の、ねっとりとした香りすら纏った"そこ"へと釣り込まれては、あのフォルムの完璧さに、つまりはそれが孕んでいた禍々しい力に向き合うことになるだろう。あたかも漆黒の荒波打ち寄せる、異界の浜辺に投げ出されたかのごとく。

 ……と、僕は浜辺にいた。とは言っても異界の、ではなくしてこの世界の、そしてこの国の、和やかでありふれた浜辺だ。"この世界の"というのはまあ当たり前にしても、重要だと思うのは、"この国の"とごく当たり前のように思ったそのことだ。つまり僕はこの国=日本を、多くの人と同じように心落ち着く場所として捉えていることになるだろう、私事で恐縮ながら最近心がなんだか落ち着いていなかったものだから、こうしてそう認識した(できた)のだと実感できたことそれだけで、なんだか胸の干からびかけた部分に慈雨が染みわたってゆくようだー
 ーいや、先の話は正確ではないかもしれない。というのは浜辺が浮かぶや、ほぼ間を置かずして妙齢の女の子("の子"とあえて付けるのだけど)が、それも胸の小さめの女の子が笑顔でー泣きたくなるくらいに爽やかな笑 次へ
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