グエル公園
その夜、彼女は再び灰色の世界の夢を見る。どうしてだかグニャリと家々が曲がりくねって立っている。自分も曲がっているのではないかと不安になったものの、とうやら大丈夫らしい。と、黒のシルクハットを被った中年の白人男が左手前からヌッと姿を現した。彼女は身構えながらもこの黒ずくめの男が真っ白なハトを飛び立たせる様を想像していた。しかし彼はそんなそぶりは露とも見せず、実に慇懃に両手を身体の左に伸ばして"ようこそ"のポーズを取った。自然と気位が高くなった。
「ねぇ、こんなグニャグニャした町を歩けというの?」「歩けといいますか、愛果様の世界にはこの町しかないのですよ」と彼は困ったような顔をした。振り向くと、森だったはずの場所には黒い渦が巻いている。すがるように再び彼の方を向くと、彼女を見つめながら彼は静かに頷いた。
目が覚めてからもグニャリが収まらない。夢にこそ現れなかったものの、彼女はそれをもたらしたのが他でもなく先生であることを、正確に言えば彼の睨めつけるような視線であることを直覚していた。牡丹雪はさながら空へと架けた夢、橙の光はさながら彼がくれた切なさ。それらはまさに彼の睨めつけによって命脈を断たれたに等しいのだとしたら。
泣きたいわけじゃない。マグマのような怒りが湧き起こるわけでもない。ただただ力なくうなだれたくなる、そんなトーンを感じていた。自分は先生の前では無力なのだと思う。どんなに薔薇色の体験をしたところで彼は言うだろうー"それは良かったですね。でも高揚しすぎるのも良くないですからね"そうだ彼はすぐにそう、スッと「でも」へと繋いでしまう、私はそこで話を止めたいそして目一杯共感してもらいたいそして言って欲しいのだ"この調子で良くなってゆきましょう"と、やわらかい眼差しで。なんでなにもかも逆なのよアイツは!と、しかし彼女はいよいよ激してきた。
「ねぇおばあちゃん、私ウォーキングに行くの止めにするわ」「へえ、なんでまた」「あのね坂田くんに会っちゃったの」「おお信吉くんか、元気やったやろう」「うん、相変わらずね。でも私、また会っちゃうんじゃないかって思うと恥ずかしくって」「気にすることない思うけどなあ」向かいに座ってそう言う祖母の前で祖父が、彼女と同じく前を見ながら、しかし物憂げに実質どこでもないような宙を見つめていることに彼女は気づく。
もちろん、それは自分を案じてくれてのことだと分かってはいたもののそんな祖父のトーンは彼女を外へと押し出す決定打となった。重苦しさに耐えられずに外に出た。またあの場所で水色の空を見たかった。彼に会わないようにと身を隠しては視線を走らせ移動しまた身を隠す、そうしているうちにえもいえぬ哀しさに襲われて、途中の公園で彼女は泣いた。白い朝顔が目に入ると、涙は溢れに溢れて海になったー"私も白いの。とてもとても、白い娘(こ)なのよ。なのにどうしてこんなにも、上手く生きることができないんだろう…"
その夜灰色の世界は落ち着きを取り戻していたから、彼女は夢へと自ずとめり込んでいた。橙の明かりを見るとさながら魂の故郷の光であるかのように思い、舞い降り来る牡丹雪の仄揺れる軌跡にいまは亡き母の身体をかさねていた。このあいだはそんな細かなこと意識さえしなかったなと思いさらに雪の粒を食い入るように見る、けれど雪はあくまで雪で涙の結晶のようではなかった、私の涙が降っているのかとも思ったがやはりそれは出来過ぎというものか。
そんなことを考えていると、今度は手前というには心持ち離れたやはり左側の家の陰から、シルクハット男がまたしても姿を現したのだけれど慣れのためだろうスウッと現れたように思った。
「おそようございます」「そりゃ、夜にしかここには来れないからね」「いいえ、愛果様はもう、目を瞑りさえすればいつだってこの場所に来ることができます」その瞬間、すべてが穏やかな明るみへと収束していくような心地がした。男の顔は浅黒くなって目は細まり、そうしてあのドキッとするような親しみがやって来たけれど不思議と驚かなかったー「まさかあなたがお父さんだったなんてね」「愛果、お前はいま本当に大変なところにいるね」「大変なんてもんじゃないわ」と彼女はあくまで気位が高い、父に対してこんな風な口を利けることがとてつもなく快感だった。
朝起きると身体がほかほか温まっていた。そんな幸福の余韻のさなか彼女は分析を始める。そもそも私は元々、お父さんとあまり話をしてこなかった、病気になってからはもちろん"大丈夫か?""無理だけはするなよ"等気を使ってくれたし優しさ感じもしたけれど、それだけと言えばそれだけで。でもそこに先生のあの「キッ」があった。そのトーンには私の世界の牧歌的な要素たちを危機に陥れるような、いわば乾いた脅威があった。そこで
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