名もなき寺に響くセミの声を
孤独のさなかに希望を見る。明確な形はないけれどたしかな、漠然とした豊かさという希望を。早朝からセミの鳴いていることを幸せに思う。セミが存在しない世界だってありえたのに、彼らは現に存在している、そのことの重みが僕を、現実という名の不可思議へと誘う。
どうしてお寺とセミは似合うのだろう、南禅寺の山門の野太い柱に、吸い込まれるようなセミの声。実際には南禅寺に行ったのは15年前の秋だったかもしれないけれど、ともかく、この朝も彼らはありとあらゆる寺でその声を響かせているのだと思うと、たとえば1人旅したいなぁなんて気持ちだって湧いてきて、孤独はいよいよ甘くなる。
といってもちろん僕は、1人旅の計画なんて立てやしない。ただこの身体はどこへだって移動し得る、その自由という名の豊かさが眉間あたりに揺蕩って、目を瞑ればなお"僕"は、伸びやかに諸々の空間へと織り成されてゆく。
連想という名の出逢いの前に謙虚でいることの、悦び。僕はひたむきでひっそりとした少年になる。そうして僕は無垢に世界と出逢い直す。そしてその世界には、未だ見ぬ君という存在も含まれているのだ。
たとえば名もなき寺に響くセミの声を、君が聴くということ。過去なのかこの今なのか、あるいは遠い遠い明日なのか―時制の確定のできないまま、未だ僕に訪れずにいながら、でもいつかたしかに訪れるかのような、そんな朧な記憶のようなワンシーンとして、それはある。そしてひとえに、ただ1つ君というピースを待っている。
未だ形を持たない、君という感触。仄かに過去の女性たちの雰囲気に彩られてもいる、君という予感。遠い明日の出逢いはそれらを高めてくれるだろうか。あるいは快く裏切ってくれるだろうか。そんなことを思うと、まるで胸が潮騒に満ちてくるかのようで。
また、今日という1日が始まる。
TOP