決意を新たに

いまの職場に移る1年前まで、僕は別の会社で働いていた。これは、そのときの上司だった女性の話。

まずは、1番鮮烈な記憶から。作業が一段落して座っていると、彼女は立ったまま机に両手を広げてついて、「大丈夫?」と僕を見つめたのだけど、そのときの甘い溶けるような声色と、眉がほのかに下げられた慈母のような表情を、僕はいまでもそれを実際に経験しているかのように思い出すことがある。

彼女は雨露に濡れたあじさいのようにしとやかで、彼女がその口をひらくだけで、あたりは雨上がりのような澄んだ空気に包まれた。

彼女の目は三日月のように綺麗で、彼女と目が合うだけで、水面に揺れる月のように僕の胸は震えた。

でも、僕は彼女が優しくて綺麗なだけだったら、けして彼女に恋してはいなかったと思う。なにより彼女は、真面目でひたむきな女性だった。

彼女の作業は目が回るほどに早く、それでいながら正確無比だった。他の同僚や僕とは決定的な違いがあった。でも僕は少しでも彼女に追いつきたいと、できるかぎりがんばっていた。ときおり彼女の横顔をそれとなく見て、この胸を震い立たせながら。

薄化粧に映える彼女の切れ長の目はますます細められていた。細められるほどに、作業所の空気はしゃんと張りつめていく。僕は彼女が周囲を染め上げていくその魔法に、いつも胸を高ぶらせながらも惚けていた。

いまでも鮮かに思い出すのは、彼女が倉庫で脚立にまたがりながら、2階から手渡された重いダンボールを、下の1階の作業員に次々手渡していくときの光景だ。僕はその彼女の背中を見ていた。広く美しい、西洋絵画の女性のような背中だった。そして彼女が荷物を受け止った瞬間、その肩は冬の淡い日射しのなか、白いシャツとともにぐっと盛り上がった。僕はそんな彼女が、馬上で躍動する女戦士のように思えて誇らしかった。そして彼女が荷物を下ろすときの、右下を向いた彼女の、雪のように白いひたむきな横顔―

僕は彼女が好きだった。その優しさを思っては、彼女以上に優しい女性に出会うことはないだろうと絶望したりしていた。

でもそれじゃダメだと、僕は気持ちを入れ替えることにした。それは絶対に、彼女が僕に望んでいることとは違う―そう思ったから。

尽きることのない優しさを湛えた彼女の面影の記憶は、いつしか、嵐の夜の海のような激しい熱情とは無縁になり、いまでは昼下がりのようなたおやかさとともにそれはある。それでもときには、後ろ髪を引かれるような心持ちになることもある。けれど、もう優しさに溺れることはなくなった。

いま、僕の胸のなかで彼女は、純粋に僕の背中を明日へと押してくれている。僕はいま彼女に、好意以上に憧れを感じている。彼女のように、身も心も強くなりたいと強く思っている(そのための一環としてダンベルを始めた)。いまや彼女は僕にとって、甘やかな夢から現実の目標に変わったのだと思う。大地にしっかりとその根を張った、力強い目標に。

そんな気持ちを忘れることなく日々を歩んでいくことを、僕はここに誓いたいと思う。希望とともに生きることこそが、彼女が僕に望んでいることだと思うから。

24/06/25 17:51更新 / はちみつ
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