時代
1.
顔を洗って髭を剃ると
私の顔は鏡の中にあった
洗面所の窓
その外にはいつも外があって
夜がまだ薄っすらと残っている
貞淑なやす子は
朝食の後片付けをしている
今までの毎朝を
そしてこれらの毎朝を
貞淑であり続けるかのように
身支度を終え玄関で靴を履く私は
行く先もわからぬまま
今日も勤めに出る
そう言えば先ほどまで
ミルクのようなものを
飲んでいた気がする
扉の向こうでは
戦争が始まっている
2.
街にはたくさんの人がいて
足音を立てることもなく歩いていた
足音は
いったい何時から
どこかに行ってしまったのだろう
列車に乗って
足音のある駅に
行こうとしたのだけれど
そんな駅はありません、と
駅員たちは首を横に振るばかりだ
たしかにそうかも知れない
彼らは足音など
聞いたことがないのだから
家に帰った私は
辞書で「あしおと」について調べた
その後二時間
やす子と「あしおと」について
語り合った
3.
やす子はもういない
私は思い出す
やす子の髪を
その長さを
その色を
その枝毛の数まで
日曜日の暑い朝
足でシーツの冷たいところを探れば
いつもその先には
やす子の冷たいふくらはぎがあった
冷たいふくらはぎのやす子
やす子
やす子
やす子
やす子の名を3回呼んだ
4回呼んでも
やす子はもういない
4.
その日、私は公園で
午後の半日を素描に費やした
散歩途中の杖をついたおばあさんと
寒いですね、なんて話をした以外は
夕刻になり
役場のスピーカーから音楽が流れ
人々は足音を鳴らし
それぞれの家路につく
帰るべき場所があるならば
私もそろそろ帰るべきなのだ
・
公園のベンチ
男が忘れていったスケッチブックは
すべてが空白で埋め尽くされており
最後のページにだけ擦れた文字で
女と思しき者の名前が書かれていた
いつしか雪が降り始め
すべてを白く覆い尽くそうとしている
残痕も
残像も
残響も
その小さく白いものの降って来るところを
人々が空と呼んでいる