本当の名前
あなた、頑張って
隣で寝ている妻の寝言にびっくりした
寝ているのに何故わかったのだろう
わたしはちょうど42.195キロのフルマラソンの最中で
トップを走っているのだ
これからきつい上り勾配にさしかかる
二位の選手は息づかいがはっきりと聞こえるところまで迫っている
はあ、はあ、はあ
どんどん息苦しくなる
こんなことならもっときちんとトレーニングしておくべきだった
夕べはエッチなビデオなど見ないで早く寝ておくべきだった
もっと妻に優しくしておくべきだった
ごめん、あれは浮気ですらなかったんだ
はあ、はあ、はあ
妻の寝言が徐々にはっきりしてくる
あなた、頑張って
あなた、しっかりして
あなた、どうしたの
あなた、あなたってば
起きて!
妻に起こされて目が覚めた
夢だ
汗をびっちょりかいて息が上がっている
ああ、嫌な夢を見た、起こしてくれてありがとう
そういって振りかえると
妻はコーナーでトレーナーとおぼしき男に耳打ちしている
わたしはリングの中央にポツンとひかれた布団の上だ
反対のコーナーを見る
ああ、だから違うんだよ、
あの娘とは手をつないだこともないんだってば
ゴングがなる
二人が激しく殴りあい
間に挟まれたわたしにもパンチがとんでくる
これもきっと夢なんだ
夢に違いない
夢なら早く覚めてくれ
そう思う一方で、待てよ、と思う
目が覚めたときにそこに現実があるという保障はない
それどころか、これが自分の夢であるという自信すらない
わたしはもしかしたら、
誰かの夢の中で生きている架空のわたしでしかないのではないだろうか
最初から何もない
布団もエッチなビデオも無い
マラソンも殴りあう競技も無い
妻もあの娘もわたしもいない
そんな世界で誰かがただ夢ばかりを見ている
いいパンチがあごに入って意識が薄れていく
もし目が覚めたら
この夢を見ているわたし、もしくは誰かが
今のわたしよりかは幸せな毎日をすごしていることを願う
遠くで誰かが名前を呼んでいる
本当の名前をわたしは知らない