醤油
二十数年前
大量の醤油を飲んで自らの命を絶った科学者がいる
それが私の父だ
いったいどれくらいの醤油を飲んだのか
警官が説明しようとすると
母はそれを遮り
私の手を引いて長い廊下を歩き始めた
その手の力を今でも覚えている
、
夜の海は しょうゆ色
しょうゆの なみが立ち
しょうゆの 風がふく
月だけが見えないのはなぜ
私が小学生の時に書いた詩だ
あら、海が醤油なの、先生はクスリと笑った
先生、違うんだ、これは悲しい詩なんだ
そんなこと、言えなかった
、
今朝は醤油差しの調子が悪く
何かが詰まっているみたいに
ポトリポトリと一滴づつしか落ちない
暇を持て余した私は
その一滴一滴に今まで愛した女の名前をつけることにした
ポトリ やす子
ポトリ きよみ
ポトリ パトリシア
、
母は知っていたのだと思う
父は自殺をしたのではなく
科学者として実証しただけなのだ、と
母は父の死後、一つぶの涙も見せなかった
父のことも醤油のことも一切話さなかった
、
醤油差しの流れがいきなり良くなり
次から次へと醤油が目玉焼きの皿に注がれる
ドロシー、ナンシー、さゆり、ひばり、みどり
マリリン、オードリー、せい子、あきな、きょうこ
ひでみ、まき…
名前をつけるのに精一杯で、気がつけば
皿には醤油の海があった
黄身が月!
、
ある日、この世から醤油がなくなってしまった
でも、誰もそれに気がつかない
「醤油」という概念そのものがなくなってしまったからだ
回転寿司屋では客が寿司にソースをつけて食べている
「俺たちは何か間違っているんじゃないか!」
一人の若者が立ち上がって叫んだ
その場にいた人たちは、はっとして若者を見たが
また、何事もなかったかのように寿司にソースをつけて食べ続けた
そして若者も再びその中に紛れ込んだ
若さ故の衝動
、
この世から醤油がなくなって困る者はいなかった
ただ、醤油工場で働いていた人たちは
自分は今まで何をしていたのだろう、と
不安げに手を動かして何かの仕草をしていた
それも最初の頃だけで、やがて
今日も一日平和だねえ、と言いながら手を動かすようになった
、
こうして、人は
大切なことや大切ではないことを忘れていく
数年前に母が他界した
葬儀の後、母の部屋から私宛の手紙が見つかった
私はまだその手紙を読んでいない
読まなくても私にはわかる
父の死後も、母の中では何も終わっていなかったのだ、と
、
最後に、佐藤君について語っておきたい
私の詩が教室の後ろにはりだされたとき
それを読んだ級友たちは皆クスクスと笑った
そのなかで、佐藤君だけが
美しく悲しい詩だ、と言ってくれた
はっきり言って、私は佐藤君が好きではなかった
九九もろくに言えず、逆上がりもできず、
何より、いつも鼻水を垂らしていたから
私は小さく「ありがとう」と言って走り去った
佐藤君と話をしたのはそれが最後だ
その日以来、私はますます佐藤君を遠ざけるようになった
ごくまれに、私は佐藤君のことを思い出す
本当に、ごくまれに