気泡
中華料理を食べそこねた兄が
急行列車で帰ってくる
僕はまだプールの水底で
習字の練習をしている
兄は僕より背が高く
顔も様子も似てはいないけれど
よく双子と間違われた
習字のはらいが得意で
丁寧に根気よく教えてくれた
何度も水の中で笑った
兄はいつも淡い色をしていた
加熱した牛肉が好きな人だった
初めて降る雪を見ながら
これがぜんぶ牛肉だったらな
そんなふうに呟くのを聞いた
雪の方が溶けるから綺麗だよ
僕の言葉に兄は恥ずかしそうに笑った
本当は同じように呟いている人が
たくさんいるのかもしれない
そう思うと
何も知らない僕の方こそ恥ずかしくて
兄のように笑うこともできずに
俯くしかなかった
今でもまだ何も知らない
これから何を知るのか
それすらも知らない
気泡が昇っていく
徐々に膨らんで
水面に溶けてなくなる
たぶん僕はあれにはなれない
習字よりも綺麗なので
ずっと眺めて遊んだ
どこからか帽子が飛んできて
丸く歪んだ影をつくる
列車の窓を開けた兄のものが
ここまで飛ばされてきたのだと思った
帽子はいつも
窓から風で運ばれるものだから
そして今、空いている窓は
兄が開けた列車の窓しか
ないはずだから
何か悲しいことがあっても
いずれすべては収まっていく
母は牛肉を中華風に加熱して
帰りを待ち侘びているだろうし
兄ならば開口一番
牛肉が食べたいと言うのだろう
ここに届くことはない兄の日々を
僕は僕の日々として順番に過ごす
眺め続けた気泡の
ひとつひとつを思い出しながら
急行列車の窓を閉める
最後まで返しそびれた兄の帽子が
溶けてしまわないよう
両手で握りしめる