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ねむらない

近所の用水路で小さな魚を捕まえた
家にあった水槽に放し
部屋の日当たりの一番良いところに置いた
魚は黒く細っこくて
その頃のわたしは
なんとなくまだ幼かった


わたしは魚に
「ねむらない」という名前をつけた
「ねむらない」はよく泳ぎ
そして眠らなかった
夜中に起きて水槽を覗いても
「ねむらない」は底の方で
ただじっとしているだけだった


毎日粉状の餌を少量あげた
餌をあげていると時々は母がやってきて
いっしょに「ねむらない」の様子をながめた
日の光の眩しさに目を細めながら
二人で話をすることもあった
 名前は何ていうの?
 「ねむらない」
 可愛い名前ね
母の眠っている姿を
ほとんど見たことがなかった
夜はわたしより遅く寝たし
朝はわたしが起きると
すでに家のことをしていた
少し古い感じのする母だった
くすんだ色と匂いがよく似合った


魚には瞼がなくて
じっとしている時に眠っている
と動物の情報番組で知ったのは
それからもっと先の話
もう「ねむらない」がいない頃の話


悲しいことがあるとわたしはいつも
「ねむらない」に話しかけた
悲しいこと、といっても
幼い悲しみなどたかが知れていた
給食が食べられなかったとか
好きな子が他の子と仲良くしてたとか
その程度のこと
先生に怒られたことなんてなかった
そつなく良い子だったから
いじめられたこともないし
積極的にいじめたこともなかった
誰かがいじめられているのを見ると
それが自分でないことに安心した


ある日母がいなくなった
そして新しい母がやってきた
新しい母は前の母より若くて美しかった
立ち居振る舞いも華やかだった
「お母さん」と呼ぶと
父も新しい母もたいそう喜んだ
母がかわった、ということを
わたしは「ねむらない」に話さなかった
多分話せなかったのだと思う
悲しいことがあると相変わらず
「ねむらない」に話しかけた
それだけでわたしは
十分にかわいそうな子だった


前の母の眠っている姿を
ほとんど見たことがなかった
夜中に目が覚めて
「ねむらない」の水槽を覗いたときも
母は針仕事などをしていた
寝床にいる母が目を瞑ることなく
仰向けのまま豆電球の灯る天井を
じっと見ていたこともあった
表情の無い横顔だった
何か恐くてなって
わたしだけが目を瞑った


夏の暑い日だった
 お魚、もう逃がしてあげようか
餌をあげているわたしに新しい母が言った
 お魚、こんな狭いところにいても窮屈よ
「ねむらない」という名前を
新しい母に教えたことはなかった
 それにお魚にも家族がいるはずだし
その後も母の言葉は続いた
わたしは知っていた
きれい好きな母が
みすぼらしい魚や
不衛生な水槽を嫌っていたことを
 

「ねむらない」を小さな容器に移し
用水路に行くと
わたしは「ねむらない」を
捕まえた場所に放した
「ねむらない」は上流の方に頭を向けて
ゆらゆらと泳いだ
暑くてお腹もすいたので
早く帰りたかったけれど
お別れには泣かなければいけない
そんな気がして
悲しかったことの断片を
できるだけたくさんかき集めた
どこか遠くの薄暗い部屋で一人
目を瞑って眠っている前の母を思い浮かべて
初めて涙が出てきた
  
 
23/11/25 06:50更新 / たけだたもつ



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