饂飩累゛たり甲陽軍鑑
永禄四年(1561年)八月に遡ること
前月父の虎盛が薨去し家督を継いだ
直後の甲斐武田家家臣足軽大将小幡
勘兵衛昌盛が験て認ためた噺である
武田家を総帥とする甲斐勢はその頃
海津城(今の長野市)に布陣した
第四次川中島の合戦である
「御屋形」と呼ばれる信玄公の前に
当年二十歳になったばかりの武田家
傍流の親戚筋で娘婿である穴山信君
(のち出家し梅雪)がすすみ出ると
斥候を通じて集めた前線視察時の
情報報告を事務的におこなった
当世具足の出立で将几に腰を預けて
いた信玄は頷き乍がら小姓に命じ
幕向こうでぐつぐつ煮立っていた
大鍋より陣中食をよそって来させ
大碗を自づから差し出した
「大儀であった。湯づけをたべよ」
「ははぁっ。有り難く戴きまする」
信君は総領から恭しげに拝領した
碗をもったとたん顔を綻ばせる
「おおっ、ほうとうですな」
夏の最も暑い時節で玉のような汗が
噴出していたが全く気にならない
甲州産ほうとう汁は大好物なのだ
遥か後年信玄が病没した後に自身が
武田軍の指揮を継いだ四郎勝頼公を
その側近の跡部勝資らとの対立から
見限り 死に追いやる切欠となること
や また寝返った先の徳川家康公が
信長討滅後の明智一派に襲われたた
め 領国へ逃れる途中落武者狩りの
手に掛り自分も敢なく最期を迎える
結末など この時分には知る由もない
「ほかの者共にもどんどん振舞え。
遠慮はいらぬ。ここらが我等甲斐
衆の気合の込め処であるぞ」
信玄は立ち上がり碗を高く掲げた
「こたびの出陣こそ越後の成上り虎
(上杉政虎、後の謙信。三帰五戒を
所信とし刀八毘沙門天を信仰した)の
軍勢に一泡ふかせ一矢報いるのだ」
ぉおおーっと閧の唱和が響びいた
「初代信義公や先代信虎様、先々代
信縄様がこの出陣を若しご覧になら
れていたならば」二年前信玄と共に
出家し今は清岩斎と号している宿老
原虎胤が目頭を抑え涙ぐんでいる
いくさ場では猛将の名を轟かせた
老将も今では相談役としてのみ陣に
詰めている唯の訳知り顔の好好爺だ
信玄の祖父信縄公は曽祖父に当たる
そのまた父信昌公が一旦家督を自分
に譲ったあと変節して異母弟(油川)
信恵に継がせ直そうと画策したため
父子兄弟間の骨肉の内乱となり信昌
病没後もその混迷は永く痕を引いた
元々は足利将軍尊氏に近侍したその
六代前の七代当主信武公が代々地盤
とした甲斐守護に任じられ次の家督
を受けた信成・信春父子が北朝方と
して南朝と闘ったことに遡る しかし
九代信春公は応永年間の内乱で居館
を追われ塩山奥の柳沢砦で憤死する
その子一〇代信満公は三年後坂東で
勃った上杉禅秀の乱に巻込まれ敗死
その次一一代信重公は剃髪しニ一年
の間隠遁した後甲斐守護に復権する
がその一ニ年後穴山一族に討たれる
更に後を引継いだ子一ニ代信守公は
実権を守護代で甲斐源氏庶流一族の
跡部に簒奪されたまま五年で早世し
それを継いだのが件だんの信昌公だ
一〇年をかけて跡部を国政から追放
した一方 内外国人勢の反攻に激しく
悩まされた かくて源氏縁りの守護職
武田家は内乱に明暮れ波瀾の代替り
を重ねる宿業を長きに亘って以降も
背負い続けて参ったのである
ちなみにようやく甲斐一国内を平定
した信玄の父信虎は川中島戦さなか
にはまだ存命中であったが嫡男たる
夭き晴信(信玄)により放逐された後
京の都に逃れて足利将軍家に寄生し
返って血筋の宿縛から解き放たれた
気儘な放蕩生活に興じてたとされる
信玄の代になってから武田家中は
その守役だった板垣信方や甘利虎泰
ら臣下のなかの多くの武将が戦死し
父祖の代から連なる古参の武者は
めっきり数も減り世代交代も進んだ
今回千曲川を挟んだ対陣では攻めの
陣立てを立策した山本勘助軍師が
余計に昂ぶっているようにみえた
危険な兆候だな 軍師どのは
この戦いで何やら起るかもしれぬ
小幡は戦況を亡き父に倣った法則で
冷徹に分析しながら軍師の挙動に
憂慮すべき変調を感じ眉をひそめた
その懸念の通り山本は己れの策の
成就ならず責を負って敵陣中に乱れ
入り鮮烈に討死を遂げて 骸となった
世に名高い川中島第四戦は結局の処
政虎公率いる越後勢と決着がつかず
永禄一〇年の第五戦まで膠着状態
を堅持し年月だけが無駄に経過した
その間信玄が出陣中に部下達と食の
場を共にしたお手軽戦中スナックの
ほうとうの伝承は幾千夜に航るもの
であったことか 小幡子孫の監修典著
とされる家中軍法大成の甲陽軍鑑に
もその詳細は語るに憚ばかれている
一方で この中世をこと初めとする
名産ほうとうや煮貝など甲斐地方
の郷土料理は いまも甲府の街角の
土産物店や郷土料理の店で気軽に
出逢うことが叶なうものである