平和
底抜けに明るい気持とは、
私の風にいつも、重い石があって、
重石は、わざと置いていたのではなく、
ただ置かれていたことです。
それらは正しかったのですが、
間違っていた理由が「存在しないもの」、として最近思い出されて、
ですから誰も語れず、きまずさをうたいます。
考えてみれば、「霊、人間の霊」とも異なった、ゆうれいの存在が私には新しく、新輝として、
「悪さをする」ところが、人と違いどんなものだろうと思う視点で。
知れば、不幸が原因でもないからマリアよりもずっと不思議な卑しさ。
醜悪、という言葉は美しい。このことを日ごろ考えて居て、
自分のテーマでもある。
同時に真逆である大蛇や、精霊の美しさをみるので、
仏のきっかけが、何であったのかは、
私は、国法の字のすばらしさに愛着をもち、
要は「全員が文化的に生きなければ。全員が平和を求めなければ。」
だから、「私」は
いままでのことを、起こり得た
私の知ってる災いとして
軽く、美しさと呼びます。
飲まれないで生きてるのだから、儚さがないというか、
散らない不気味な花の様にも思う。政治は精神にたいして無知だから占いをおこなう。
遊びが在るのに知らないと、質を云われると、
それが高さではなく、崇高なものではなく、自分の生活におく上下の知識なら
「顔」も単なる使い捨てのものとなるだろう。
物静かに、捨て身の覚悟を当然として、世に継ぐような
室町の次は、戦国時代。戦いと云っても、内面は「計画」や「設計」なのだ。
かつて一度もなかった三百年の平和(えどじだい)を作ってしまった。