ポエム
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ニーチェのように(詩的に論ず)
光を意図するために

〈進化〉
着目するのは、
人間がアニメーションに似ると云う事態である。

人間の、空いた2つの鼻の穴、ふさふさの眉毛、身体、肌色の貧しい感覚。こんな怪しい顔面に対して、すっきりと省略された漫画のキャラクター。豊かな色彩感覚と、洗練された髪型と体の光。二次創作の原因で有る。
私たちが見てきた数々の理想の像、美しさのキャプチャ(アニメ)で有るが、つまり人はその絵やストーリーにたいしても理想を叶えるべくして叶えて居る。光(信仰、彼女の胸)の残像としての自己への帰依と、輪郭の眼差し。この線が見た、この線が撫でた光の形。
(それを表現するのは藝術で有るが、時代に揉まれてプレッシャーが樽んで思い出せない手触りが多い事がかゆくて、かきむしっている。描きたいものを掌に一杯掴んで用意してたのに腹立だしい。)




人間の〈理性〉は娑婆で究極にアニメ(無声の、モノクロの)に近付いて強力だ。
私たちを包む希望を受け止め、乗り越えようとしている。


この「アニメ」について非常に文化的で有る事に創造として認定がされる、

私が驚いたのは、文化と創造のはっきり繋がる事のダイナミックなまでの人の生き方である。
眼前のアニメ、すなわち理想的な「私」から、自己が巻かれることの無い身体の光のコレクションと、「私」が生で見る太陽たちの慎と恭しさ、然り。







現代アニメと着物のオートクチュールと、見て驚く事に関して何か違いがあるかしら。液晶でも有機ELでもまだまだ箱の中での出来事で有る。私の欲しい3Dの実感とは、一体愛についての見返りか、それでもささやかに希望を持つのは悪くないのか。全体性を通したときに冷える熱と、個性的な僅かな裏切り。



「理性とは何か?」が、自由のパスワードなのだろう。
21/02/19 08:34更新 / 待作



談話室



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