渇仰する
何をそんなに渇仰する必要があると言ふのか。
既に俺はかうして此の世に存在し、
そもそも俺は己の存在に対して十全とし、
ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、
何を渇仰するものがあると言ふのか。
ところが、一度、己に対して疑念が生じると、
疑心暗鬼に陥り、
暗中模索に試行錯誤と、
闇の中を手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして
俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、
何時も俺のことを嘲笑するのだ。
これはこれで楽しくもあるのだが、
この自己矛盾には既に辟易してゐて、
常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと
その存在の有り様を渇仰するのだ。
俺が渇仰する俺とは、
さて、それは此の世において信用出来る存在として
つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として
今生の苦を一身に受けながら、
それでゐて恬然とし、
何処吹く風かと言ふやうに
俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、
他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として
身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそが
俺の渇仰して已まぬ存在の正体かと言へば、
そんなことは全くなく、
それとは裏腹に、
基督も釈迦牟尼仏陀も、
人間の業からの開放を
つまり、現代においても信仰の対象として此の世に縛り付けてゐる
その浅ましき人間の業からの開放を切に願ってゐるのだ。
それでは人間は範とする人間像が描けぬと、
この二千年余りの間、
あり得べき人間の有り様を
全く描くことなく、
全て、基督や釈迦牟尼仏陀などにおっ着せて、
自身は旅の恥はかきすてとの慣用句の如く、
今生を「旅」に模して恥ずべきことばかりを行ってゐるその無様な姿を
「俺は俺だ」の一言に全て集約して、
満足してゐる醜いその醜態は、
何をか況やである。
人間は今生において、
基督や釈迦牟尼仏陀などの先人の足跡を軽軽と乗り越えた
存在を渇仰せずして、何を生きるのか。
それこそ、恥じ入る外ない人生を生きてゐたといった趣旨の言葉を
此の世に書き残して逝った太宰治を超えるものとして
現在を生きるものは誰もが渇仰するのが、
人の道と言ふものではないのか。
しかし、
――へっ、 何を馬鹿なことをほざいてゐる。
と、そんなことなど全く信じてをらぬ俺はそれに対して半畳を入れるのだ。
当然のこと、現在に生きる俺も尚、過去に生きた存在を範として生きるのを由としてゐるのだ。
それもこれも過去と未来は何時反転してもいい存在で、
此の世に距離が生じるといふことは、
既に過去世であり、
しかし、過去世の中に目的地が必ず生じる筈で、
さうなると、距離は過去世を表はさずにそれは反転して未来世に変はるのだ。
この時間のTrick(トリック)に騙されることなく、
未来と過去が渾然一体と化した此の世の有り様に
戸惑ふことは許されず、
俺は現在に取り残される形で、単独者として存在するのだ。
その単独者は、存在を渇仰し、
さうして何かにやうやっと変化するその端緒にあることに身震ひするのだ。
既に俺はかうして此の世に存在し、
そもそも俺は己の存在に対して十全とし、
ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、
何を渇仰するものがあると言ふのか。
ところが、一度、己に対して疑念が生じると、
疑心暗鬼に陥り、
暗中模索に試行錯誤と、
闇の中を手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして
俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、
何時も俺のことを嘲笑するのだ。
これはこれで楽しくもあるのだが、
この自己矛盾には既に辟易してゐて、
常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと
その存在の有り様を渇仰するのだ。
俺が渇仰する俺とは、
さて、それは此の世において信用出来る存在として
つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として
今生の苦を一身に受けながら、
それでゐて恬然とし、
何処吹く風かと言ふやうに
俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、
他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として
身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそが
俺の渇仰して已まぬ存在の正体かと言へば、
そんなことは全くなく、
それとは裏腹に、
基督も釈迦牟尼仏陀も、
人間の業からの開放を
つまり、現代においても信仰の対象として此の世に縛り付けてゐる
その浅ましき人間の業からの開放を切に願ってゐるのだ。
それでは人間は範とする人間像が描けぬと、
この二千年余りの間、
あり得べき人間の有り様を
全く描くことなく、
全て、基督や釈迦牟尼仏陀などにおっ着せて、
自身は旅の恥はかきすてとの慣用句の如く、
今生を「旅」に模して恥ずべきことばかりを行ってゐるその無様な姿を
「俺は俺だ」の一言に全て集約して、
満足してゐる醜いその醜態は、
何をか況やである。
人間は今生において、
基督や釈迦牟尼仏陀などの先人の足跡を軽軽と乗り越えた
存在を渇仰せずして、何を生きるのか。
それこそ、恥じ入る外ない人生を生きてゐたといった趣旨の言葉を
此の世に書き残して逝った太宰治を超えるものとして
現在を生きるものは誰もが渇仰するのが、
人の道と言ふものではないのか。
しかし、
――へっ、 何を馬鹿なことをほざいてゐる。
と、そんなことなど全く信じてをらぬ俺はそれに対して半畳を入れるのだ。
当然のこと、現在に生きる俺も尚、過去に生きた存在を範として生きるのを由としてゐるのだ。
それもこれも過去と未来は何時反転してもいい存在で、
此の世に距離が生じるといふことは、
既に過去世であり、
しかし、過去世の中に目的地が必ず生じる筈で、
さうなると、距離は過去世を表はさずにそれは反転して未来世に変はるのだ。
この時間のTrick(トリック)に騙されることなく、
未来と過去が渾然一体と化した此の世の有り様に
戸惑ふことは許されず、
俺は現在に取り残される形で、単独者として存在するのだ。
その単独者は、存在を渇仰し、
さうして何かにやうやっと変化するその端緒にあることに身震ひするのだ。