波紋のやうに
ゆらゆらと広がりゆく水面の波紋は
その姿を失はず無限遠まで広がねばならぬ。
それなくしては、俺が俺である事が根底から覆されてしまふのだ。
何故なら、波紋が消滅してしまったならば、
それはものの消滅を、宇宙の消滅を意味し、
そんな状況下で俺なんぞが存在出来る訳がないぢゃないか。
波紋は消滅するから美しいと異を唱へるものは、
未だに存在に関して楽観的過ぎるのだ。
弱弱しく見える波紋こそ、
永続して此の世の涯まで消える事なく
波を存続させねば、
水よりも羸弱(るいじゃく)な俺なんぞの存在など此の世に問ふ尊大は許されぬのだ。
ゆらゆらとゆっくりと広がってゆく波紋よ。
お前こそが存在を存在として此の世に表象するその根本なのだ。
例へば何ものも透過してしまふ素粒子は独り孤独で、
つまり、何ものにもぶつかる機会がなく、
とことん孤独なのだ。
それ故に、素粒子は絶えざる自己との対話の中に身を置いて、
あるものは一瞬で此の世からその姿を消し、
あるものは永劫に亙って、否、無限に向かって飛翔するのだ。
素粒子もまた、波紋として此の世に広がる。
それなればこそ、水面上の波紋は未来永劫消えてはならぬ。
それが俺が俺として此の世に存在出来る根拠となり、
波紋は偏に存在に付髄する属性になり得るのだ。
例へば重力は波として存在を存在たらしめるべく絶えず波紋を表出させる。
此の世の一表象の典型が波紋なのだ。
その典型を失ふ不合理において、俺をして何を俺と言へばいいのか。
つまり、波紋の消失は迷宮の中に俺を追ひやる。
哀しい哉、水よりも羸弱な俺は
不純な水として此の世に屹立し、
水の塊として此の大地に立つしか出来ぬのだ。
ゆらゆらと今も尚広がりゆく眼前の波紋は
では、何故に生じたのか。
それは、水中から魚が跳ねたからに過ぎぬのだ。
それでは此の何次元かは知らぬ世界に波紋を広げるものは、
此の世の次元とは別次元の何かに違ひない。
それをこれまでは「神」と呼んでゐたものなのかもしれぬが、
今は何かの物体として、此の世に存在するかもしれぬ「もの」として
把捉可能な「もの」へと格下げになってしまったのだらうか。
そんな馬鹿な事をつらつらと考へながら、
今にも消えさうな水面の波紋を心地よく見入ってゐる俺は、
此の世の終焉に思ひを馳せながら
河岸に立ってゐる俺を実感してゐるのだ。
仮に此の世に神がゐるならば、
此の世をもう一度攪拌し、
それを握り潰して何処へかと投げ飛ばし、
Big bangをもう一度起こして欲しいと言ふ願望もなくはないが、
もう一度此の世を創り直したところで、
俺に躓く俺はどうあっても存在する筈だ。
詰まる所、絶望しない俺なんぞ
生存する価値もありゃしないのさ。
その姿を失はず無限遠まで広がねばならぬ。
それなくしては、俺が俺である事が根底から覆されてしまふのだ。
何故なら、波紋が消滅してしまったならば、
それはものの消滅を、宇宙の消滅を意味し、
そんな状況下で俺なんぞが存在出来る訳がないぢゃないか。
波紋は消滅するから美しいと異を唱へるものは、
未だに存在に関して楽観的過ぎるのだ。
弱弱しく見える波紋こそ、
永続して此の世の涯まで消える事なく
波を存続させねば、
水よりも羸弱(るいじゃく)な俺なんぞの存在など此の世に問ふ尊大は許されぬのだ。
ゆらゆらとゆっくりと広がってゆく波紋よ。
お前こそが存在を存在として此の世に表象するその根本なのだ。
例へば何ものも透過してしまふ素粒子は独り孤独で、
つまり、何ものにもぶつかる機会がなく、
とことん孤独なのだ。
それ故に、素粒子は絶えざる自己との対話の中に身を置いて、
あるものは一瞬で此の世からその姿を消し、
あるものは永劫に亙って、否、無限に向かって飛翔するのだ。
素粒子もまた、波紋として此の世に広がる。
それなればこそ、水面上の波紋は未来永劫消えてはならぬ。
それが俺が俺として此の世に存在出来る根拠となり、
波紋は偏に存在に付髄する属性になり得るのだ。
例へば重力は波として存在を存在たらしめるべく絶えず波紋を表出させる。
此の世の一表象の典型が波紋なのだ。
その典型を失ふ不合理において、俺をして何を俺と言へばいいのか。
つまり、波紋の消失は迷宮の中に俺を追ひやる。
哀しい哉、水よりも羸弱な俺は
不純な水として此の世に屹立し、
水の塊として此の大地に立つしか出来ぬのだ。
ゆらゆらと今も尚広がりゆく眼前の波紋は
では、何故に生じたのか。
それは、水中から魚が跳ねたからに過ぎぬのだ。
それでは此の何次元かは知らぬ世界に波紋を広げるものは、
此の世の次元とは別次元の何かに違ひない。
それをこれまでは「神」と呼んでゐたものなのかもしれぬが、
今は何かの物体として、此の世に存在するかもしれぬ「もの」として
把捉可能な「もの」へと格下げになってしまったのだらうか。
そんな馬鹿な事をつらつらと考へながら、
今にも消えさうな水面の波紋を心地よく見入ってゐる俺は、
此の世の終焉に思ひを馳せながら
河岸に立ってゐる俺を実感してゐるのだ。
仮に此の世に神がゐるならば、
此の世をもう一度攪拌し、
それを握り潰して何処へかと投げ飛ばし、
Big bangをもう一度起こして欲しいと言ふ願望もなくはないが、
もう一度此の世を創り直したところで、
俺に躓く俺はどうあっても存在する筈だ。
詰まる所、絶望しない俺なんぞ
生存する価値もありゃしないのさ。