焦燥する魂
何をするでもなく、
忽然と俺を襲ふこの焦燥感は、
絶えず自虐する俺が、恰も懸崖に立たされた無様さに対して
密かに独りずっと嗤ってゐる俺を見出してしまったからに違ひなく、
其処に快楽を見出す俺は、果たせる哉、Masochistには違ひないのである。
未来永劫嬲られ続けるといふ地獄の責め苦が仮に存在するのであれば、
正しく俺はその責め苦を受けてゐる極悪人なのである。
否、違ふ、俺は極悪人になんかこれっぽっちも為れやしない侏儒。
それでもこの焦燥感は油断をしてゐると虚を衝いて襲ひかかり、
それは見事なまでに全く容赦がないのだ。
何に対して焦がれてゐると言ふのだらうか。
何をして俺は燥(かわ)いてゐるのだらうか。
これが将に愚問なのだ。
そんなに事は言ふまでもなく、
己の存在に対する不安、つまり、存在に対する焦燥でしかないのだ。
それを問ふ馬鹿はさっさと已めればいいのであるが、
どうしても問はずにゐられぬ俺は、
余程の暇人であり、
ぐうたらでしかないのだ。
其処で嗤ってゐる奴が俺であり、
彼処で嗤ってゐる奴も俺なのだ。
「Crazyって褒め言葉よ」
と、言ってゐた人を知ってゐるが、
将に俺は病的なまでに
俺を虐めなければ気が済まぬのだ。
俺は俺を虐めるのは天才的なまでに上手く、
そればかりを思ひながら生を繋いでゐた。
つまり、俺の起動力とは俺が俺を自虐する時に発する呻吟であり、
哀しむ声なのだ。
艱難辛苦は大概経験したが、
そんな事は俺が俺を自虐する事に比べれば、
全く取るに取らないものでしかなく、
現実の艱難辛苦は己が己を裏切るそれに比べれば、
何でもないのだ。
しかし、幾ら強がりを言っても
俺の敵が俺と言ふのはどうも居心地が悪いもので、
俺が俺である事はばつが悪くて仕方がないのも事実で、
これを埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、
俺もまた、俺である事が不快で仕方がないのだ。
例へばそれは、
――俺が、
と、言った刹那に感ぜざるを得ぬ恥じらひにも似た感覚、
つまり、俺は俺である事が恥辱なのだ。
俺の存在自体が不快なのだ。
その為、切ない切ないと何時も感じる俺を、
自虐して嗤ふ俺がゐて、
その俺をまた自虐する俺がゐて、
と、これが蜿蜒と続くのだ。異形の吾が無数に存在する苦痛は、
俺の許容出来る能力を遙かに超えてゐて、
俺は絶えず俺が食み出してゐる俺を
存立させなければならぬと言ふ苦悶を抱へ込まざるを得ぬのだ。
何にせよ、俺が俺と言ふ時は、
恥辱を感じて、穴に入りたく候なのだ。
それならば、俺は俺と言った時、
ぶるぶると打ち震へる俺をして此の世に屹立させるべく、
針の筵の上に座る度胸がなくてはならぬ。
将にそれは清水寺から飛び降りる覚悟がゐるのだ。
さう、存在とは覚悟の別称に違ひない。
さうまでして焦燥するものとは、俺を回収して
つまり、無限にばらけてしまった俺を一度「一」に収束させて
俺は俺と言ひ切れる俺を無限から奪還する事なのだ。
忽然と俺を襲ふこの焦燥感は、
絶えず自虐する俺が、恰も懸崖に立たされた無様さに対して
密かに独りずっと嗤ってゐる俺を見出してしまったからに違ひなく、
其処に快楽を見出す俺は、果たせる哉、Masochistには違ひないのである。
未来永劫嬲られ続けるといふ地獄の責め苦が仮に存在するのであれば、
正しく俺はその責め苦を受けてゐる極悪人なのである。
否、違ふ、俺は極悪人になんかこれっぽっちも為れやしない侏儒。
それでもこの焦燥感は油断をしてゐると虚を衝いて襲ひかかり、
それは見事なまでに全く容赦がないのだ。
何に対して焦がれてゐると言ふのだらうか。
何をして俺は燥(かわ)いてゐるのだらうか。
これが将に愚問なのだ。
そんなに事は言ふまでもなく、
己の存在に対する不安、つまり、存在に対する焦燥でしかないのだ。
それを問ふ馬鹿はさっさと已めればいいのであるが、
どうしても問はずにゐられぬ俺は、
余程の暇人であり、
ぐうたらでしかないのだ。
其処で嗤ってゐる奴が俺であり、
彼処で嗤ってゐる奴も俺なのだ。
「Crazyって褒め言葉よ」
と、言ってゐた人を知ってゐるが、
将に俺は病的なまでに
俺を虐めなければ気が済まぬのだ。
俺は俺を虐めるのは天才的なまでに上手く、
そればかりを思ひながら生を繋いでゐた。
つまり、俺の起動力とは俺が俺を自虐する時に発する呻吟であり、
哀しむ声なのだ。
艱難辛苦は大概経験したが、
そんな事は俺が俺を自虐する事に比べれば、
全く取るに取らないものでしかなく、
現実の艱難辛苦は己が己を裏切るそれに比べれば、
何でもないのだ。
しかし、幾ら強がりを言っても
俺の敵が俺と言ふのはどうも居心地が悪いもので、
俺が俺である事はばつが悪くて仕方がないのも事実で、
これを埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、
俺もまた、俺である事が不快で仕方がないのだ。
例へばそれは、
――俺が、
と、言った刹那に感ぜざるを得ぬ恥じらひにも似た感覚、
つまり、俺は俺である事が恥辱なのだ。
俺の存在自体が不快なのだ。
その為、切ない切ないと何時も感じる俺を、
自虐して嗤ふ俺がゐて、
その俺をまた自虐する俺がゐて、
と、これが蜿蜒と続くのだ。異形の吾が無数に存在する苦痛は、
俺の許容出来る能力を遙かに超えてゐて、
俺は絶えず俺が食み出してゐる俺を
存立させなければならぬと言ふ苦悶を抱へ込まざるを得ぬのだ。
何にせよ、俺が俺と言ふ時は、
恥辱を感じて、穴に入りたく候なのだ。
それならば、俺は俺と言った時、
ぶるぶると打ち震へる俺をして此の世に屹立させるべく、
針の筵の上に座る度胸がなくてはならぬ。
将にそれは清水寺から飛び降りる覚悟がゐるのだ。
さう、存在とは覚悟の別称に違ひない。
さうまでして焦燥するものとは、俺を回収して
つまり、無限にばらけてしまった俺を一度「一」に収束させて
俺は俺と言ひ切れる俺を無限から奪還する事なのだ。