雫
薄緑のアオバハゴロモがいつの間にか左端にいた。肌色の長椅子に座って昼下がりの風に吹かれているところだった。飛んで行きそうで飛んで行かない。それだけのことがなんだか健気で、この木の椅子が気に入ったのかなと思うと、そこから微笑ましい想像が広がっていって私は、生態なんて無視して、この子はお父さんハゴロモとお母さんハゴロモと一緒に住んでるんだと思った。
やさしいやさしいお父さんでしょうだって、たとえばいかついアオバハゴロモなんて想像できないもの(!)でも色違いなら想像できるなと、私はお父さんハゴロモを青で、お母さんハゴロモを黄で彩色していた青は、マリンブルーの青、黄は黄砂の黄、孤城に砂風が吹きつける朝に気づけば私は飛んでいた。白のドレスをごくゆるやかに押し上げる胸、それはお城から遠くオアシスを望む娘。手すりをギュッと握る両の手のひらがか弱いのは、後に黄ハゴロモに生まれ変わる定めだから。
冷たい黄砂が辛いだろう。白く美しい手は荒れるだろう。星がキラキラとする黒い海に、彼女は何を架けるんだろうか。輝く水色のリボンを架けてあげたいな、なんて思ったけれど、ちょっと少女趣味すぎて失礼だなと笑う。なんだか私、感傷的になっちゃってるなと、そう思っているうちにリボンは、巨大な水色のリボンは、この星の輪郭を描くようにして、どこまでも伸びやかに、またリボンのニュアンスとは一見相容れないような力強さでピーンと張り詰めて、夜空の遥か彼方まで架かっていた。高く見えない結び目を想っていると、リボンが実は巨大な水色の蝶なんじゃないかと思えてきた。その羽を大きくするエネルギーのすべてを充てて、どこまでも逞しく帯を伸ばして空を包んでいるのだと。
…と、彼女のことを考えるのを忘れかけていたことに気づいた。そういえばと目を開けて左を見るとアオバハゴロモはいなかった。ほんのちょっとのあいだ想い巡らせただけなのに私は、長年たいせつに育んできた夢が一瞬にして、胸からごっそり抜け落ちてしまったような気がしたあまりに、あまりに強い9月の陽射しだ、私は夕暮れ時にスズムシとともに夢を偲びたかった、なんて、またも感傷的になっちゃったさ。
そういや砂漠に季節はあるんだろうかと私はふと、まるで、あなたは晩秋の女(ひと)のようだね水色のリボンは消えている、ねぇ星々ってあんがい冷たい、よね(?)潤んでるのはただあなたの一対の瞳、か細い両腕広げたあなたに砂漠の雪が降る夢を、見てもいいかと訊いた小さいその胸のうちに、白い水面を、ゆるやかに立てるさざ波の象る、狂おしいほどに和やかな傾きの奥に。
ごめんねあなた。リボンを架けたい、なんて私は口だけ娘、ホントは哀しいあなたが見たい、哀しい哀しいあなたが見たいと口ずさみ。カラフルな着こなしというものから疎外されているかのようなあなたの、上機嫌でいる権利が海の黒へと揮発し続けているような、その感じ。
ねぇあなたは、実は雫なんじゃないかしら?120%の水分でできているあなたは、かつて星々と一緒に浮かんでいた。でもあなたは目立っていた。他の乾いた星々を差し置いてダントツに輝いていた。あなただけが輝いているようなものだった。そんなあなたは妬まれて、目をつけられて、ある夜に地上へと追放されてしまったんだ。
リボンはあなたの心の色だと私は思ったのと、私はいまさらながらに力説しようとしたのだけどもう遅い気がした。あなたは哀しみの底に沈んでいた。初めて苦しいと私は思った。罪悪感がせり上がってきた。
"あなたがただ静かに機を織るよに過ごしているのが見えた気がしたから、私はあなたを、夢の方角へと折り返してあげたかったの"
私は目を瞑った。このいまもどこかのささやかなお寺では雨が、しっとりとやさしい雨が、降っているのだろうにと私は思った。焦げ茶の柱から立ち昇る匂いを感じていた。あなたはそこで、雨宿りする女(ひと)でだってあり得たんだ。