燃えるようなイチゴ味の海(性的なエッセイなので、ご注意を)
「彼女さんにはしてもらえないからって、ここで〇〇してもらうのを楽しみにしてるお客さん、多いです」
「ここはねだから、"夢の国"なの。"大人のディズニーランド"なのよ」
キラキラした瞳でそう言う彼女に「非日常的な体験ってやつやね」と相づちを打ちながら、僕はなんだか自分が冷めているのを感じていた。"夢の国"や"大人のディズニーランド"といった言葉の小綺麗さは、何か大切なものを覆い隠している気がして。
まるで母性を演じているようだと、僕は思った。会話の谷間に僕がそれとなく手を取ると、「んっ、何~?」と甘い声の微笑み。でも僕は、目の前の女優の軽薄なきらびやかさの、他でもないその軽薄さにこそ身を任せたいという強い情念を感じた。流されるに任せて抱き寄せ、茶色い目を見て、それから…
いま振り返ると、あれすらも"演技"だと言うのは無理があるし、それこそ半分は彼女の「本当」だったのだと思う。
でも、もういいかな。あの折たしかに、僕の中で彼女へのあらん限りの愛おしさが爆発したのを感じた。それは紛れもない僕の「ほんとう」だった。でもじゃあ、彼女との関係そのものも「ほんとう」かと考えたときに、それを「違う」と言い切れる冷静さを、迷いなく言い切れる落ち着きを、僕は今日ついに手に入れることができた気がする。
"夢の国"に通い始めて半年ほど。思えば、ちょっと長い通過儀礼のようなものだったのかもしれない。
ストロベリーアイスみたいに甘い夢を見たいーそんな誘惑に勝てずに通い続けて、最後の最後に、燃えるようなイチゴ味の海が、逆に僕の目を醒ましてくれた。それでさえも愛の「ほんとう」を運んできてくれはしないのだ、と。
夜空に一寸咲いては散る花火のような、狂おしくも儚い夢に愛を見るーそんなあり方が青春だとすれば、僕はいわば象徴的な形でー存在しなかったも同然のー青春を束の間取り戻し、そうして(青春に)別れを告げたのだ…なんていう分析は、さすがにちょっと気取りすぎかな。
愛のほんとうの、そのカタチを探る旅はまだ続く。でもそれが穏やかな日々にこそ存在するだろうことは、分かる(と、言い切ろう)。通り過ぎていった彼女たちの明日に幸あれと、ささやかに祈りながら。