アンチ・考える人
考える人というのが有名だけど、正直あれは良くないと思う。考えるために考えていると、人はたいがい鬱屈していくものなんじゃないだろうか。とくに感情が関わることはそうな気がする。
僕は最近、そういった悩みを考えるときには、何か他のさして集中を要さないことをしながら、胸のなか漠然とそれを泳がせるようにする―そうしていると、―たとえ暫定的なものであれ―自然で納得の行く答えがもたらされることが多い。心が収まるべきところに収まるというか。力みが取れて、胸の風通しが良くなるのだろう。
僕自身の経験では、悩みの解決というのは、ガチガチのロジックによってもたらされるものじゃない。もちろん理屈も大切だ。でもじーんと胸に迫る感覚抜きには、感情的な納得はもたらされない。考えのための考えが空回りしがちなのは、力んでしまう結果として、意図せずにして頭だけを加熱させてしまうからではないか。胸に風を入れるためには、リラックスが、ひいては軽い体の動きが必要ということなのだろう。
1つ例を出すと、たとえば仲の良くない冷戦状態みたいな奴がいたとして、「人は誰とでも仲良くできるわけじゃない」みたいな常套句を自分に言い聞かせたところで、そいつに対する反感はまあほとんど減りはしない。けれど床を雑巾で磨きながらぼんやりそいつのことを思い浮かべていると、なぜだかすんなりとあきらめがつく境地になっている―そういった経験をするとき、むしろ逆に考えるということを手放してさえいるというような気さえする。
頭より胸。火より風。軽快に生きている人というのはたぶん、そういったことを、ほとんど体で知っているのだと思う。僕はいま、そんな軽快さの訓練を始めたばかりだ。
僕は最近、そういった悩みを考えるときには、何か他のさして集中を要さないことをしながら、胸のなか漠然とそれを泳がせるようにする―そうしていると、―たとえ暫定的なものであれ―自然で納得の行く答えがもたらされることが多い。心が収まるべきところに収まるというか。力みが取れて、胸の風通しが良くなるのだろう。
僕自身の経験では、悩みの解決というのは、ガチガチのロジックによってもたらされるものじゃない。もちろん理屈も大切だ。でもじーんと胸に迫る感覚抜きには、感情的な納得はもたらされない。考えのための考えが空回りしがちなのは、力んでしまう結果として、意図せずにして頭だけを加熱させてしまうからではないか。胸に風を入れるためには、リラックスが、ひいては軽い体の動きが必要ということなのだろう。
1つ例を出すと、たとえば仲の良くない冷戦状態みたいな奴がいたとして、「人は誰とでも仲良くできるわけじゃない」みたいな常套句を自分に言い聞かせたところで、そいつに対する反感はまあほとんど減りはしない。けれど床を雑巾で磨きながらぼんやりそいつのことを思い浮かべていると、なぜだかすんなりとあきらめがつく境地になっている―そういった経験をするとき、むしろ逆に考えるということを手放してさえいるというような気さえする。
頭より胸。火より風。軽快に生きている人というのはたぶん、そういったことを、ほとんど体で知っているのだと思う。僕はいま、そんな軽快さの訓練を始めたばかりだ。