僕は幸せ者だ
コロナがもし収束したならば、僕はもう1度街に出よう―長いこの土曜日の午後、僕はそう思った。また紆余曲折あるかもしれないけれど、とりあえず今の思いを記しておこう。
地元は僕にとって大切な場所だ。けれど、街というものが放つ芳香を1度でも嗅いだことのあるものにとって、田舎というのはやはり寂しい場所だ―そんな思いが募って離れない。閉塞感に、僕はもう耐えられそうにない。
たとえばふらっと店に立ち寄って、そこで思いがけない出会いがある―そんな可能性は田舎にはほとんどない。そんな認識が、寂しいという思いを連れてくるのだろう。
もちろん都市にいたとして、そんな出逢いがあるという保証はない。むしろ出会えない可能性の方が高いだろう。けれど大阪にいた26〜30の4年間、都市は僕にそんな"夢"を見せ続けてくれた。小綺麗で洗練された若者向けの店、きらびやかなショーウィンドウ、にこやかで屈託のない売り子の笑顔、アンニュイで艶かしい女の太もも・・・。
なんて空しいと思われるかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれない。僕はそうして惚けたようになったまま、何も動かなかった。していたことと言えば、小説家を夢見て駄文を書き連ねていただけだった。もちろん何も起こらなかった。でもその実僕は幸せだった。都市というものが振り撒く夢の大気を、目一杯この胸に吸い込んでいるだけで満たされていた。たとえばケーキ店から見下ろす人の群れ、それはこの世界の栄光そのものだった。
もっとも僕はもう35で、さすがにあの頃のように夢だけを生きるというわけにはいかないだろう。もし今度街に出たならば、僕は出逢いを実際に求めて動こうと思う。あの頃僕はそそっかしく、危なっかしい人間だった。もし何かアクションを起こしていたら、早まった取り返しのつかない決断をしてしまったり、騙されたりしていたかもしれない。けれど今なら、人というものと、世界というものと四つ組みになれる―そんな気がしている。
ずっこけられるかもしれないけれど、では具体的に何をすればいいのかは、まだ分からなかったりする。マッチングアプリなんかはダメだ。以前ペアーズをやってさんざんだったから(苦笑)。けれど方向性は決めた。人々のさなかへ―
コロナというこの冬の時代を、そんな希望の光を遠く見据えるようにして、生き抜いていけたら。
―
これが昨日書いた文章。今朝もう考えが変わった(笑)。
なんとなく予感するのだ。都市に行ってまた、夢に惚けたようになる自分の姿を。
それは具体的に考えたとしても、そうだ。たしかに都市に行けば確率は上がるだろう。けれどそれは存外、僅かなものなのではないか?なにか趣味のサークルに入るくらいしか思い付かなかったのだけど、そこで出逢いがなければ、その時点で田舎の地元にいるのとほとんど変わらなくなるはずだ―
さらに言えば、僕は都市の艶やかな"動き"よりも地元のしとやかな"静けさ"を好むように、加齢によって変化していることを、改めて自覚したことがある。なぜだろう、その事実を僕はいつも忘れてしまうのだ。けれど今朝都市のせわしなさが胸に強烈に迫ってきた。そして翻って、ここ(地元)が穏やかな楽園のように感じられてきた。
出逢いは天に任せて、ただ変わらない日々を大切にして生きる―そんなゆったりとした、静かに自分と向き合うような生き方を、僕はどこかこの世界の輝きから見捨てられた生き方のように感じていたのかもしれない。
人は大半の時間を、自分というものと付き合って生きるものなのだという大前提を、忘れていたのかもしれない。人と会い膝を付き合わせて話をしたら、また1人で遥かな日々へと旅に出る―そんな生き方こそがクールな生き方だと、今は思える。
もっとも今でも、恋人こそいないけれど、すでに僕はさまざまな大切な人たちに囲まれている。
職場には、懇意にしてくれる同僚たちがいる。昼休みや帰り際にそのほっこりとした笑顔を見ると、日々の仕事の辛さは溶けていくよう。
(a型)作業所でお世話になった支援員の女性とは、作業所を離れた今も電話で3、40分話す仲だ。前は作業所に顔も出して、これからも1年おきくらいに顔を出すつもりだ。
1人で在ること。人と在ること。ともに感じることのできている僕は、幸せ者だ。
地元は僕にとって大切な場所だ。けれど、街というものが放つ芳香を1度でも嗅いだことのあるものにとって、田舎というのはやはり寂しい場所だ―そんな思いが募って離れない。閉塞感に、僕はもう耐えられそうにない。
たとえばふらっと店に立ち寄って、そこで思いがけない出会いがある―そんな可能性は田舎にはほとんどない。そんな認識が、寂しいという思いを連れてくるのだろう。
もちろん都市にいたとして、そんな出逢いがあるという保証はない。むしろ出会えない可能性の方が高いだろう。けれど大阪にいた26〜30の4年間、都市は僕にそんな"夢"を見せ続けてくれた。小綺麗で洗練された若者向けの店、きらびやかなショーウィンドウ、にこやかで屈託のない売り子の笑顔、アンニュイで艶かしい女の太もも・・・。
なんて空しいと思われるかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれない。僕はそうして惚けたようになったまま、何も動かなかった。していたことと言えば、小説家を夢見て駄文を書き連ねていただけだった。もちろん何も起こらなかった。でもその実僕は幸せだった。都市というものが振り撒く夢の大気を、目一杯この胸に吸い込んでいるだけで満たされていた。たとえばケーキ店から見下ろす人の群れ、それはこの世界の栄光そのものだった。
もっとも僕はもう35で、さすがにあの頃のように夢だけを生きるというわけにはいかないだろう。もし今度街に出たならば、僕は出逢いを実際に求めて動こうと思う。あの頃僕はそそっかしく、危なっかしい人間だった。もし何かアクションを起こしていたら、早まった取り返しのつかない決断をしてしまったり、騙されたりしていたかもしれない。けれど今なら、人というものと、世界というものと四つ組みになれる―そんな気がしている。
ずっこけられるかもしれないけれど、では具体的に何をすればいいのかは、まだ分からなかったりする。マッチングアプリなんかはダメだ。以前ペアーズをやってさんざんだったから(苦笑)。けれど方向性は決めた。人々のさなかへ―
コロナというこの冬の時代を、そんな希望の光を遠く見据えるようにして、生き抜いていけたら。
―
これが昨日書いた文章。今朝もう考えが変わった(笑)。
なんとなく予感するのだ。都市に行ってまた、夢に惚けたようになる自分の姿を。
それは具体的に考えたとしても、そうだ。たしかに都市に行けば確率は上がるだろう。けれどそれは存外、僅かなものなのではないか?なにか趣味のサークルに入るくらいしか思い付かなかったのだけど、そこで出逢いがなければ、その時点で田舎の地元にいるのとほとんど変わらなくなるはずだ―
さらに言えば、僕は都市の艶やかな"動き"よりも地元のしとやかな"静けさ"を好むように、加齢によって変化していることを、改めて自覚したことがある。なぜだろう、その事実を僕はいつも忘れてしまうのだ。けれど今朝都市のせわしなさが胸に強烈に迫ってきた。そして翻って、ここ(地元)が穏やかな楽園のように感じられてきた。
出逢いは天に任せて、ただ変わらない日々を大切にして生きる―そんなゆったりとした、静かに自分と向き合うような生き方を、僕はどこかこの世界の輝きから見捨てられた生き方のように感じていたのかもしれない。
人は大半の時間を、自分というものと付き合って生きるものなのだという大前提を、忘れていたのかもしれない。人と会い膝を付き合わせて話をしたら、また1人で遥かな日々へと旅に出る―そんな生き方こそがクールな生き方だと、今は思える。
もっとも今でも、恋人こそいないけれど、すでに僕はさまざまな大切な人たちに囲まれている。
職場には、懇意にしてくれる同僚たちがいる。昼休みや帰り際にそのほっこりとした笑顔を見ると、日々の仕事の辛さは溶けていくよう。
(a型)作業所でお世話になった支援員の女性とは、作業所を離れた今も電話で3、40分話す仲だ。前は作業所に顔も出して、これからも1年おきくらいに顔を出すつもりだ。
1人で在ること。人と在ること。ともに感じることのできている僕は、幸せ者だ。