ポエム
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職場を去った彼女が、僕に残してくれたもの
また新たに1人、職場を去った人がいる。またと言ったのは、つい1ヶ月ほど前にも所長さんが辞めるという出来事があったからだ。理由は僕たちには伏せられたままだった。僕より3、4歳上なだけの彼は僕をあだ名で呼んでくれたり、実習にやってきた女性を僕が好きになった際いにはろいろと相談に乗ってくれたりした。彼女はそもそも入社しなくて、彼女の職場に電話することも課長さんに禁止されて、結局恋はあっさりと終わってしまったのだけど。

僕はどうも女性に好意を抱きやすい星の下に生まれたらしい。盆前の11日を最後に職場を去った彼女は、35の僕より8歳上だったのだけど、彼女が入ってきたばかりのわずか半年前の頃、僕は清楚で控えめなはにかむような笑顔の彼女にたちまち惹かれていた。彼女に近づきたくて、1人残って製品の計算をしている彼女に勇気を出して話しかけたことがあった。にこやかだったけれど、あくまで外向きの顔だった。結局それ以降、作業の合間合間に軽く作業上のことで笑い合うことはあれど話らしいまとまった話はできずだったから、振り返ればなんだか微妙だったなと、今日の僕は作業中にも胸中自嘲したりしていたくらいだった。恋心とはちょっと違う憧れみたいなものだったようにいまは思うけれど、彼女の歳がもっと下だったら好きになってたかもしれない。

そんな彼女の特徴の大きな1つが、人に対する腰の低さだった。彼女はたとえば同世代の人とパイを分け合うとして、9割5分ほどの人には先を譲るんじゃないかと思うくらいに腰が低かった。彼女はすらっとしながらも背丈は180近くあったので、その見た目とのギャップはなんだか微笑ましかったりした。

僕が驚いたのは、にもかかわらず彼女が凛々しかったことだ。そのひたむきな横顔、落ち着いた所作、そして洗練された数々の陰影に富んだ表情、それらすべてが1つになって、彼女のえもいえぬ気高さへと結実していた。

僕が教えられたこと―それは、たとえ人にへりくだっていようとも気高くあることはできるということだ。その2つは反対でないどころか、両立さえしうるものだったということ。彼女は僕に、そんな認識のコペルニクス的転回をもたらしてくれたのだった。

彼女は最後の日の朝も(そのときはまさか今日が最後だとは知らなかった)、やはり寂しそうに1人会議室(昼食時以外はほぼ人はいない)でスマホを見ていたなあと、僕はいまぼんやりと思い出している。そう、彼女は打ち解けている人がほぼいなかった。あんなに愛想が良いのに、込み入った話はなかなかしないのだった。というより、僕は彼女が自分からそんな話を振っているところを、僕はほとんど見かけたことがない。いつも彼女は聞き役だったのだ。けれど不思議なことに、彼女に悩みを相談しようとする人はいなかった(僕はといえば、勇気が出なかった)。彼女はまた、これは僕と似ていて親近感を抱いていたのだけど、みなでワイワイすることがなかった。たぶん、なんとなく雰囲気から推測するに、その能力がなかったのだと思う。

いずれにせよ彼女は1人だった。僕はよほど話しかけたかったけれど、最初の1、2回を除いて、やはり勇気が出なかった。最初に勇んでよろしく!みたいなノリだったから、かえって後の継ぎ方が分からなかったのかもなと、いまぼんやりと思う。

彼女はもういない。たぶんもう会うこともないだろう。だけど、僕は彼女の謙虚なスタイルと、あの実に優しい笑みをともにした、相手にどこまでも寄り添うような対話の作法を、大げさでなく"継承"できたらと思っている。あんな風な笑顔はさすがに僕にはできない。けれど彼女のようになりたいという願いは、この胸のうちに燃えている。それはつまるところ、女性性への憧れなのだと思う。彼女を見ているうちに、僕は男らしさというものにこだわり続けていた自分が馬鹿らしくなった。そんなものを否定するようにして、彼女は輝いていた。しっとりと優しく、ときに哀しげに。

人は芯さえしっかりと持っていれば、ちょっとくらい弱くたっていい。男らしさへのこだわりを手放す勇気を、彼女は僕に与えてくれた。
21/08/17 20:05更新 / 桜庭雪



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