家事をした
もう分かってきた。悩むから立ち止まるんじゃない。立ち止まるから悩むんだ。
家事をした。掃き掃除、拭き掃除。キッチンの整頓にシンクの掃除。1時間が矢のように過ぎた。そのあいだ嫌なことはほとんど浮かばなかったし、浮かび上がりそうになってもすぐ流れて行った。それはまるで行為へと溶けて行ったかのよう。
どうも僕は暇なとき、―たぶんほとんど自動的に―何かを解決しようとするモードになるのだ。そこではだから、まず何かを解決したいという欲望がある。そしてそれに沿うようにして、解決するに足ると思われる"課題"を日々や将来のなかから引っ張ってくる―そういうことなのだと思う。
けれど実は、解決できる問題なんてほとんどない。そもそも、そうだからこそそれらは"問題"足り得たのだとすら言える。
さらに言うなら、そのとき僕は自分で自分の能力を過大視していることになかなか気づかない。自分を客観的に把握し、冷静に合理的に解決しようとしている自分に酔っている。けれど実は、自分のことを客観的に考えるなんてことはそもそも不可能なのだ。だって自分なんだから。それは客観的になったつもりの主観的な自分。下手な考え休むに似たりとは、本当によく言ったものだと思うけれど、僕はもっと強く、休むがましと言いたいところだ。
結局、ほとんどの物事はなるようにしかならない。だから、世界や人を自分に合わせるんじゃなくて、自分を世界や人に合わせるほうがずっとずっと楽だ。そして自分も人も幸せになる。そうしていくなかで、もしどうしても譲れないものが出てくれば、そのときは大切に抱きしめればいい。それはたぶん、僕の個性と言っていいと思うから。
自分に降りかかるあれこれの全てを見通し解決できるかのような、そんな肥大した自我を静めるためにも、僕はこれからも生活へと自分を溶けこませて行く。