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彼女の現実
僕の職場にはたくさんの人が働いている。すれ違っても挨拶しない人のほうが多い。そのことが少し前までは寂しかった。けれど今は心にゆとりがある感じで、ある意味かなり不思議といえば不思議な感覚な気がするのだけど、ただその人の漠然としたキャラや位置付けを胸のなか眺めるようにして楽しんでいれば満たされる感じがするのだ。この人はあの人とは仲良しだけど、合いそうなあの人とは意外にもほとんど口きいてないな、とか、堂々としてるように見えて過敏なとこあるんだなとか、そうやって色々眺めていくうちに、自分は実に多彩かつ不思議な人間模様に取り巻かれているんだなあと、なにかしみじみ感じ入ってしまうのだ。

けれども当然ながら、たとえばいままでの彼女から想像できないような行動を見かけたり、あるいは話し込んで意外な一面を垣間見たりすれば、印象はがらりと変わる。そしてそのとき、―ここを強調したいのだけど―いままで見てきたシーンの積み重ねは、そこから振り返る形で"新たな意味"を与えられている。たとえば、泣きじゃくっている姿を見た後では、いままでの堂々とした態度の多くは「強がりも多少あったのかも 」みたいに、いわば過去のシーンの意味合いが変わるといったことだ。

逆に言えば、もしそれ(泣きじゃくっているというシーン)がなければ、それが起こらなければ、僕は彼女をただ「堂々とした人」だと捉えていたということになる。



僕は最近になって、1年前くらいに辞めた、とあるパートの35、6の女性のことを、なぜかとても懐かしく思い出すようになった。そして僕は嘆いている―「凛とした」「気高い」「自信に満ちた」などと言葉を重ねていっても、あるいはより細かく「胸にいつも志を秘めているような」などと表現したところで、彼女その人の10分の1さえ表せた気がしない、と。

けれど彼女はたしかに、どれだけでもそんな言葉を連ねたくなる女性だった。かっこいいなと、心から尊敬できる雰囲気をもった女性だった。もしかしたら、僕自身が9月には35になるところなので、あの日の彼女が近しい存在として浮かび上がってきたのかもしれない。たった1年と言われるかもしれないけれど、1年違うだけで風貌すら案外変わるし、心構えなら尚更だ。

僕は、自分と同じように、やはり彼女とて弱みある1人の女性であり、それでも気高く前を向いて生きていた(る)のだ―そんな"物語"を、僕は彼女に朧のなか託したいのかもしれない。

けれど僕は彼女と一言も話したことがなかったのだ。そして彼女は、僕の前ではただの1度も弱気なところなども見せたことはなかった。だから彼女の弱いところを、僕はただの1つも知らないことになる。

だからたとえば、「哀しげな」「おっちょこちょいな」などの言葉を連ねようにも、それは彼女を空しくすり抜けてしまう。だからと、繰り返すようだけれど、彼女の(僕に唯一明かされていた)光の部分に言葉を重ねていったところで、ますます彼女から離れていってしまう気がして。

それはそうだ。そんな明るいだけ、強いだけの女性なんて、いるわけない。

この先も彼女に会うことはまずないのだと思えば、僕は"彼女の現実"から、いわば永遠に拒まれている。そのことが、ただただ哀しい。
21/07/31 07:45更新 / 桜庭雪



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