ポエム
[TOP]
若かりし倉木麻衣が踊っていた
何かが起こるかもしれないとワクワクしながら過ごすことと、とくに何を期待するでもなく淡々と過ごすこと。それは僕のなかで真反対の2つだ。

前者は、周りのもの(おもに人)に期待しているという意味で受け身だ。対して後者は、自分というものの世話を自分でするという意味で能動的だ。それは何気ないようでいながらその実、絶え間なく自分を律し続けることだ。毎朝決まった時刻にアパートを出なくちゃならないし、職場に行けば脇目もふらずに自動車部品の目視検査を延々と続けなくてはならない。休みの日は休みの日で家事があるし、残りの時間はささやかな楽しみを自分で見い出して生きなければならない。

そう。そうして僕たちは、日々襟元を正し続けている。それは凡庸な人生と言うにはあまりにも気高い―そう僕は思う。

けれども、もうすぐ35になろうかという僕がそのことに気づいたのは、4年前という、今まで生きてきた長い歳月を思えば最近のことだ。

昔、僕は街をぶらついてばかりいた。それは孤独だったけれど、同時にまた甘かった。さまざまな店に行って食事を楽しみ、道行く人たちを眺めては、何かの拍子に可愛い女の子と知り合うのを夢見たりしていた。腹を膨らませると小綺麗なゲームセンターに行き、見知らぬ人とのつかの間時を共有することの不思議に打たれたりもした。一言でいえば、僕は予感という刺激の中毒になっていたのだ。街というものに孕まれた予感のすべてを、その身にあまねく吸収しようとするかのように。

あのころ僕は、いわば1人の夢遊病者だった。田舎に帰り31で働き始めてから、僕は初めて現実というものに根を下ろして生きることを知った。けれどときおり、そんな日々が無性に懐かしくもなる。

僕は今朝起きかけに夢を見る。街を、雑踏を、えもいえぬ"温かみのある侘しさ"とでも言うべきもののなかを、僕は歩いている。ややあって交差点に出ると、ビルの電光掲示板から、倉木麻衣の若かりし頃の曲が聴こえてくる。見上げると、大きな彼女が溌剌と歌いながら踊っている。雑然としていながら淡いものが流れてきて、それはあまりにも速やかにこの胸に染み渡っていた。あの時代を、彼女の歌はたしかに彩っていたのだ。
21/07/23 10:23更新 / 桜庭雪



談話室



TOP | 感想 | メール登録


まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35c