小説から遠く離れて
僕はいま34なのだけど、27、8の若い頃―そう、いまにして思えば若かったと言うほかない頃―、小説家になりたいと思っていた。そして実際に、稚拙な文章を書き連ねては、なにか崇高なものを表現した気になって悦に浸っていた。その頃の僕は、自分を客観的に見るということが端的に出来なかったのだ。
僕はそれなりの分量を、かなり短かくはあるもののたしかに短編小説とは言いうるほどの枚数を、いちおう完成させることはした。内容はと言えば、それはあきらかに詩的なものを志向したものだった。ラストシーンでは、林の木から落ちる雫に祖母の死が重ね合わされていた。そこに至るまでには、いわゆる思春期の性の目覚めというものを、学校と家族を背景にして描いたつもりだったのだけど、その語りはあきらかに陰影を欠いていた。あっけらかんとした祖母が、孫娘(もう1人の主人公)の胸の大きさを娘である母に耳打ちし、やがて男が現れるだろうと予期する場面、ラストシーン手前、男子主人公が彼女をメールでほとんど強制的に呼び出す場面(そして彼女は母の車で田舎の祖母の家を離れ、祖母は―バトンを渡すようにして―亡くなる)、それらはいかにも唐突に語られ、シーンの前後に語られるべきさまざまな伏線や諸々の感情の綾といったものに欠けていた。結果として作品は、いかにも鮮烈なシーンを数珠繋ぎに並べてみたというような、そんな稚拙なものとなったのだった。
さきに僕は、自分を客観的に見ることがてきなかったと書いた。それでも、その作品がまず入選することはないだろうことは、なんとはなしに分かっていた。作品を原稿用紙に清書する手間を思うとげんなりしたこともあり、僕は作品を応募しなかった。けれど僕はやはり思い上がっていた。僕は作品を、あたかも偉大な作品が生まれる前のその母胎であるかのように、いわば未来の"大作"の雛型的な前哨の作品として位置付けていたのだった。
その頃僕は大阪にいて、名目上は就職活動をしていることになっていた。けれど実際には、僕はただ"文学修行"に明け暮れていたに過ぎなかったのだ。それは気ままな修行だった。あらゆる夢想が肥やしになると考えていた僕にとり、物思いに耽ることはもちろん、街を歩きながら、あんな女の子を彼女にできたら素敵だろうと妄想するのさえ修行だった。そうして結局30の冬、僕の就職見込みのないことを見透かした親に、実家に連れ戻されることになる。
実家に戻っても文章を書きたいという欲は変わらなかった。大阪でも小説と交互のようにして書いていた評論(やはり詩的なものを志向していた)を書き、そしてまた新たな小説を書き始めた。しかしその小説はどこか崩れていた。いや、崩れていたというレベルではない。シーンを数珠繋ぎにしているという感じはより強まり、もはやパッチワークのようにして、ただ連想(それも陳腐な)によってシーンが並べられているといった風であり、一言でいえば、そこからは物語の芯とでもいうべきものが消失してしまっていた。
いまだ誇大感を持ち続けていた僕は前衛的な作品ができたと自負しつつも、どこか不安だった。というのは、その作品を僕は、それこそまったく考えることなしに書いたからだ。もちろん初めからすべてが見えていたとかいうわけではない。ただ、1行目を書けば、2行目3行目と自動的にペンは進んだ。そこでは言葉が自動的に次の言葉を呼んでいるという感じで、言葉を選ぶという感覚が消え失せてしまっていた。
春のある日、それは何もしていないときに現れた。とくに頭のなかで文章を組み立てているわけでもないのに、言葉やイメージは無尽蔵に、支離滅裂な形で湧き出し続けた。言葉が言葉を呼び、イメージがイメージを呼ぶ、その流れが止まらなくなり、頭のなかを常に洪水が流れているような状態になった。一睡もできないまま翌朝を迎え、僕は朦朧としたままに、親に連れられ精神科を受診した。
―
たぶん発病したことで脳のバランスのようなものが変わったからだろうと思うのだけど、それ以降、僕は不思議なことに(ある程度の分量の)小説を書きたいとはまったく思わなくなった。小説を書くには、基本的には、あらかじめ一定の秩序や構造を漠然とであれ構築することが必要だと思うのだけど、27、8の頃あれだけ精を出していたその青写真を描くという行為が、すでに出来なくなっていた(またする気も起きなくなっていた)。そしてまた―これはもちろん幸いなことだったのだけど―、言葉やイメージの氾濫は、エビリファイ6mgの毎朝の服用によって皆無になっていたので、実家に戻ってから使っていた"前衛的な手法"も使えない。そうして僕は小説から永遠に別れを告げたのだった。
けれど超短編小説とでもいうべきものは、ここにちょくちょく書いている。そこには昔書いていたものにあった複雑さはない。けれどかえって詩的なものが純粋に表現できているように思うこともあり、僕は思うのだ―いまの作品も"まぁ悪くない"と。
それはほどほどの満足感とでもいうべきものであり、若い頃夢見ていた「完璧な作品」を書いたときに感じるだろう、雄叫びを上げるような歓喜はそこにはない。でも、それでいいのだと思う。
僕にとり病気になったことは、結果としてだけど、誇大感という憑き物を落とすことでもあったのだ。
僕はそれなりの分量を、かなり短かくはあるもののたしかに短編小説とは言いうるほどの枚数を、いちおう完成させることはした。内容はと言えば、それはあきらかに詩的なものを志向したものだった。ラストシーンでは、林の木から落ちる雫に祖母の死が重ね合わされていた。そこに至るまでには、いわゆる思春期の性の目覚めというものを、学校と家族を背景にして描いたつもりだったのだけど、その語りはあきらかに陰影を欠いていた。あっけらかんとした祖母が、孫娘(もう1人の主人公)の胸の大きさを娘である母に耳打ちし、やがて男が現れるだろうと予期する場面、ラストシーン手前、男子主人公が彼女をメールでほとんど強制的に呼び出す場面(そして彼女は母の車で田舎の祖母の家を離れ、祖母は―バトンを渡すようにして―亡くなる)、それらはいかにも唐突に語られ、シーンの前後に語られるべきさまざまな伏線や諸々の感情の綾といったものに欠けていた。結果として作品は、いかにも鮮烈なシーンを数珠繋ぎに並べてみたというような、そんな稚拙なものとなったのだった。
さきに僕は、自分を客観的に見ることがてきなかったと書いた。それでも、その作品がまず入選することはないだろうことは、なんとはなしに分かっていた。作品を原稿用紙に清書する手間を思うとげんなりしたこともあり、僕は作品を応募しなかった。けれど僕はやはり思い上がっていた。僕は作品を、あたかも偉大な作品が生まれる前のその母胎であるかのように、いわば未来の"大作"の雛型的な前哨の作品として位置付けていたのだった。
その頃僕は大阪にいて、名目上は就職活動をしていることになっていた。けれど実際には、僕はただ"文学修行"に明け暮れていたに過ぎなかったのだ。それは気ままな修行だった。あらゆる夢想が肥やしになると考えていた僕にとり、物思いに耽ることはもちろん、街を歩きながら、あんな女の子を彼女にできたら素敵だろうと妄想するのさえ修行だった。そうして結局30の冬、僕の就職見込みのないことを見透かした親に、実家に連れ戻されることになる。
実家に戻っても文章を書きたいという欲は変わらなかった。大阪でも小説と交互のようにして書いていた評論(やはり詩的なものを志向していた)を書き、そしてまた新たな小説を書き始めた。しかしその小説はどこか崩れていた。いや、崩れていたというレベルではない。シーンを数珠繋ぎにしているという感じはより強まり、もはやパッチワークのようにして、ただ連想(それも陳腐な)によってシーンが並べられているといった風であり、一言でいえば、そこからは物語の芯とでもいうべきものが消失してしまっていた。
いまだ誇大感を持ち続けていた僕は前衛的な作品ができたと自負しつつも、どこか不安だった。というのは、その作品を僕は、それこそまったく考えることなしに書いたからだ。もちろん初めからすべてが見えていたとかいうわけではない。ただ、1行目を書けば、2行目3行目と自動的にペンは進んだ。そこでは言葉が自動的に次の言葉を呼んでいるという感じで、言葉を選ぶという感覚が消え失せてしまっていた。
春のある日、それは何もしていないときに現れた。とくに頭のなかで文章を組み立てているわけでもないのに、言葉やイメージは無尽蔵に、支離滅裂な形で湧き出し続けた。言葉が言葉を呼び、イメージがイメージを呼ぶ、その流れが止まらなくなり、頭のなかを常に洪水が流れているような状態になった。一睡もできないまま翌朝を迎え、僕は朦朧としたままに、親に連れられ精神科を受診した。
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たぶん発病したことで脳のバランスのようなものが変わったからだろうと思うのだけど、それ以降、僕は不思議なことに(ある程度の分量の)小説を書きたいとはまったく思わなくなった。小説を書くには、基本的には、あらかじめ一定の秩序や構造を漠然とであれ構築することが必要だと思うのだけど、27、8の頃あれだけ精を出していたその青写真を描くという行為が、すでに出来なくなっていた(またする気も起きなくなっていた)。そしてまた―これはもちろん幸いなことだったのだけど―、言葉やイメージの氾濫は、エビリファイ6mgの毎朝の服用によって皆無になっていたので、実家に戻ってから使っていた"前衛的な手法"も使えない。そうして僕は小説から永遠に別れを告げたのだった。
けれど超短編小説とでもいうべきものは、ここにちょくちょく書いている。そこには昔書いていたものにあった複雑さはない。けれどかえって詩的なものが純粋に表現できているように思うこともあり、僕は思うのだ―いまの作品も"まぁ悪くない"と。
それはほどほどの満足感とでもいうべきものであり、若い頃夢見ていた「完璧な作品」を書いたときに感じるだろう、雄叫びを上げるような歓喜はそこにはない。でも、それでいいのだと思う。
僕にとり病気になったことは、結果としてだけど、誇大感という憑き物を落とすことでもあったのだ。