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愛すべきせわしなさ
もうすっかり秋になっているから、車を降りると夜風が頬にこたえた。砂利を踏みしめる音が胸に心地よい。
「本当に、対称的なのね。いままで意識して見てなかったから気づかなかったわ」
月と、湖のなかで輝く水月。湖面を挟んで、2つは距離を等しくしてぴったりと対称の位置で輝いていた。
「こうして見ると、本当に月が2つたしかにあるように見えないかい?彼らは2つで1つ。どちらが欠けてもいけない。」
「でもなんかちょっと冷たいというか、不安を掻き立てるような美しさよね」
そう彼女が言うと、僕は彼女をそっと抱き寄せた。



ポロンポロン、と、彼女の白くふくよかな手が鍵盤の上で踊っている。
「下手でごめんね」
間を埋めるように彼女は言う。
「でもいいよ。ひたむきさが伝わってくるようで」
「それはどうも」
彼女のピアノ。それは渓谷の急流だった。水はまだ中流のように淀みなくは流れず、絶え間ない隆起を見せ続ける。不安定でちょっと危なっかしい。でもそれゆえ、見ていて飽きるということがない。カーテンの隙間から漏れてくるうららかな日射しが、そんなたどたどしい旋律を彩っていた。

夕方庭に出ると、彼女は花に水をやっている。日射しが花の後ろの白い壁に燃えていて、それは彼女の桃のような顔をも包んでいた。それにつられるようにして、幼い頃の家路を行く光景が浮かんでいた。この世界に彼女という女性が存在しているということ、幼い自分はその事実を知らずに生きていたのだという事実が、僕を不思議な、そして敬虔な気持ちにした。彼女の幼年期。それは僕がこれからもけして知ることのない1つの厳粛な謎なのだ。
「水やり終わったら買い出し行くから、車の準備をお願い」
「オーケー」
僕は車のキーをポケットから出して車に向かった。それは、実に愛すべきせわしなさだった。
20/09/01 06:02更新 / 桜庭雪



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